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三峡ダムの移住者たちは今
新生活への希望と不安と |
方 陽 |
「世界最大級のダム」と称される中国・長江の三峡ダム――。一九九二年に着工され、十七年間の歳月をかけて、二〇〇九年には完工する予定だ。この間、大規模な住民移転計画が実施される。水没地区の総面積は千八十四平方キロ、うち六百三十二平方キロが本来は陸地だったところだ。水没地区は重慶市と湖北省の二十の市と県におよび、その中には二百六十八の鎮(町)と千六百八十の村が含まれる。建設期間には、水没地区に住む百十三万人が移住する予定。「世紀を跨ぐ大移住」といわれるゆえんである。 ダム水力発電がスタートする前の二〇〇〇〜二〇〇三年の間には、七万人の移住が計画されている。彼らは皆、住み慣れた故郷を離れ、はるか遠くの広東、安徽、江蘇、浙江、福建など十の省と上海市へ移らなければならない。 代々住み続けた故郷との別れを、彼らはどのように受けとめたのか? 中国の大規模な移住政策とその方針とは? 移住先の人々の反応は? 移住者たちは新しい生活に順応できたのか? その未来はどう変わっていくのだろう……。 以下に、上海市崇明県と広東省博羅県、安サユ省長豊県へそれぞれ移った第一次移住者――重慶の農民七千四百人のうち、いくつかのケースについて詳細にレポートする。 |
難しい故郷との別れ 童興楽さん(七〇)は生まれてこの方、重慶市巫山県南陵鎮南陵村の古い農家に暮らしてきた。一軒の家と裏の一ムー(約六・六六七アール)の畑にその人生を捧げてきたし、古い家具や調度品にも、祖父と父の思い出がたくさん詰まっているという。 しかし、彼の村と近隣の平安村の三十二戸の住民、合わせて百四十三人が二〇〇〇年八月二十五日、安徽省長豊県水家湖農場へ移ることになった。そこは童興楽さんたちが、かつて一度も訪れたことのない土地だった。 転居の通知を受けてからというもの、童興楽さんはひどく不安にかられて、熟睡できない日々が続いた。 出発日一週間ほど前の八月十七日には、夜が明けるとすぐに起き、裏の畑を何度も行き来しては見て回った。この畑もわずかではあるが生活を支えてくれたし、喜びを分け与えてくれた。童さんとともに長い歳月を見守ってきた畑なのだ。 家に戻ったところで、何をしていいのかわからない。そこで布巾を持ち出して、水に濡らして絞ったかと思うと、古びた木の食卓をゆっくりと拭きだした。それは安サユ省への移住が決まってからの童さんの新しい習慣だった。この古い家は取り壊され、思い出の家具も移住先には運べないことは、彼も重々承知していたのだが……。 移住者数が多いので、計画では彼らの移住時期を何回かに分けた。童興楽さんは第一次の移住者だった。 それまで彼は重慶を一度だけ訪れたほかは、ほとんど家を離れたことがない。重慶は北京、上海、天津に次ぐ中国四番目の直轄市で、賑やかなことこの上なかった。しかしそこは、辺鄙な山地に長らく住む老人にとって、なんの魅力もない場所だった。空気ですら変な匂いがして、食べ物は口に合わず、よく寝つかれなかった。彼は二日もたたないうちに南陵村へとトンボ返りした。この経験がよっぽど懲りたのだろう、その後、家を離れることは二度となかったのである。 中国には「金の家も銀の家も、自分の土の家には及ばない」ということわざがある。童さんの心境は、まさにこのことわざにピッタリと当てはまった。 彼はどうしても村の仲間たちと離れたくないという。子どもの頃から、彼らは山でヘビを捕まえたり、河辺で砂遊びをしたりした。大人になると、よく集まっては米酒を飲んだり、世間話を楽しんだりした。彼は目に涙をいっぱいにためて、記者に訴えるのだった。「この先、楽しく過ごせるのだろうか。ワシはもう七十歳だし、仲間とまた会えるのだろうか」 奥さんの鄒気さんは、自宅から目と鼻の先の長江に、後ろ髪を引かれる思いだった。「子どもの頃には、私も河辺で遊んだよ。あのムンとするような湿気と吹く風にあたると、さわやかな気持ちになってね」 平安村の主婦・夏学英さんが移住を望まない理由は簡単で、移住先の長豊県の農場は近くに山がないからだ。「私は小さい時から、山辺で育ったんだ。柴を刈り、草を刈って、山に行かない日はなかった。それが急に平地に移るなんて、落ち着くわけがない。まるで座り慣れた背もたれ椅子から、地面にいきなり座りこむようなものだ」 同じ村の主婦・張興蘭さんを自宅に訪ねると、部屋の中で車座になった女たちが、ちょうど涙を拭っているところだった。 張興蘭さんは目を赤くして「ここにいる姉妹たちとは、一度だって離れたことがない。つれあいを決める時だって、お互いに相談しあったし、悩み事も包み隠さず話した。仕事も遊びもいつも一緒で、マージャンもよくやった。子どもたちも一緒になって遊んでいたんで、みんなバラバラになると話せば、きっと泣き叫ぶだろうよ」と言う。 中国の農民、とくに老人たちには、根強い郷土意識がある。その意識が、慣れ親しんだ土地から離れる決心を揺るがせている。彼らは「自分たちの運命と生活の変化はもはや避けられない」と焦りと不安を覚えるのだった。
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他に選択の道はない 三峡ダム建設をスムーズに進めるためには、ダム区の住民を期日通りに転出させなければならない。そこで該当地区の政府指導者たちは、住民に対し繰り返し説明を行ってきた。例えば「ダムを建設し、長江の水を治めて有益な事業を興せば、豊かになることができる」と理解を求めたのをはじめ、国の具体的な住民移転政策や移住による経済損失の補償方法、転入先政府のさまざまな生活改善措置、移住者への優遇措置などの解説だ。 また、転出元と転入先の政府は、移住者たちに降りかかる困難をできるだけ解決するよう保証することになっている。 例えば、転出元の政府は、移住者の家に眠る余剰穀物を国の統一価格通りに買い上げ、現金で精算する。これにより彼らは後腐れも余計な心配もなく、移住ができるというわけだ。 逆に転入先の政府は、移住者が現地に到着する前に、宅地を整備し、新居を建築し、彼らと地元農民が所有する耕地の広さと質につき、平等に分配することを保証する。また彼らに就職の機会を与え、その子どもの入学問題を解決することを決めている。 こうした手厚い保護により、移住の決心が付きかねていた人々も、最終的には理解と支持を表した。 「ワシらはここを離れるよ」と童興楽さんは言う。「幹部たちが言う『国益優先』はもっともなことで、理解ができる。九八年に長江の大洪水に見舞われた時のワシらの苦痛は、今でも忘れられないよ。三峡ダムが完成すれば、河沿いの住民が再び水害に遭うことはなくなる。ワシの損失など何でもないよ」 張興蘭さんは、移住の決心がつくまで何度も荷造りを繰り返した。だが最後には納得し、まとめた荷物を母屋に積み上げてその日を待った。 「私は道理のわからない人間ではない」と彼女は話す。「庶民が豊かになるための国の政策でしょう。もし三峡ダム建設の道を妨げれば、私たちが安心できないだけでなく、子孫にまで不平不満が残るはず。河沿いに住んでいる者はみな、長江が福をもたらしてくれると信じているんですよ」 中国一の大河・長江は、童興楽さんや張興蘭さん、それに彼らの先人たちをも養ってきた。彼らは長江に深い愛情を寄せているが、その水害が彼らに大きな苦痛と不幸をもたらしたことも事実だ。 文献によれば、長江流域では二十世紀の間に一九三一年、五四年、九八年の三度にわたって大洪水が発生した。三一年には、長江の中・下流域の七つの省と二百五の県が水害に見舞われた。田畑は三百三十九万fが潰れ、死者は十四万五千人。損害は十三億八千万銀元(当時の貨幣単位)に上った。また、九八年の大洪水では、経済損失は千六百六十六億元(一元は約十三円)にも達した。歴史上の統計によると洪水は十年に一度の割で発生、長江中・下流域の数十の県の田畑を水浸しにし、多くの住宅を破壊して、人々の生命を脅かし続けてきた。 長江流域の治水と防災、経済の繁栄は、何世代にもわたる中国人民の願望だった。三峡ダム建設は、水害を防ぎ、電力を供給し、運航や灌漑の拡大などに計り知れない利益をもたらす。まさに人々の願いを実現させるための巨大プロジェクトなのだ。こうして自然と現実のさまざまな要因から、水没地区の人々は最善策として移住を選択したのだった。 |