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四川省米易県 |
文.丘桓興 写真.劉世昭
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中国は世界の耕地面積の七%で、世界人口の二二%を養い、同時に環境を守らなければならないという課題を抱えている。記者は最近、中国西南部の四川省米易県を訪れ、市場経済下の農村の現状を取材した。急速に変わりつつある農家の生活には、中国の直面する問題解決へのヒントが示唆されているようだった。 |
百平米の農家 謝小凡.四川省攀枝花市政府新聞弁公室副主任に伴われ、私は米易県普威鎮独樹村に向かった。普威鎮につくと、今度は邱時華鎮長が車で迎えに来てくれており、そのまま私達は村人の一人、鍾天康さんの家に案内された。 天康さんは今年三十二歳、中肉中背、素朴で実直な人柄だ。妻の陳昌芬さんとの間に、八歳と二歳の二人の女の子がいる。また家には彼女の母親が家事を手伝うために、わざわざ重慶からやってきていた。 天康さんの住まいは面積約百平方メートル。いかにも新築の家らしく、タイル貼りの外壁が陽光を受けてきらきらと輝く。家は西向きに建てられた三合院(中庭を囲んで、正面と左右に三棟を建てる建築様式)だ。敷地に入るとまず目をひく正面の建物は、二階建てで、客間だけでも四十平方メートル、そのほか家族の寝室と客用寝室あわせて三室、物置と、家畜小屋それに隣にトイレがある。北の棟にはレストランと売店が設けられている。窓がそのまま売店の商品受け渡し台になっていて、村人はそこで調味料や煙草、日用品などを買うことができ、村のコンビニエンスストアのような役割になっているようだ。 南の棟の外には、階段が設けられていて、そこを上って棟の上部を伝わり、正面の棟の二階にある穀物やクリなどをしまう貯蔵庫に直接行くことができる。階段の下は、鶏小屋と犬小屋になっており、大きな黒犬は敷地に見知らぬ人が入るとすぐさま吠え、主人に知らせている。敷地の西南の角にはサクランボの木があり、二階の屋根に届くほどに高い。また庭のナシ、スモモ、ビワ、ザクロなどの木の下にはカボチャや白菜が植えられている小さな畑がある。果樹や畑の緑は、敷地に生き生きとした美しさを添え、特に紅瑪瑙のようなサクランボがたわわに実るさまは、一幅の美しい風景画のようだ。 バイクと電話と 私達が家で一休みする様子を見届けると、天康さんはバイクに妻を乗せて、普威鎮の町までいそいで買物にでかけていった。村には最近、バイクやトラクター、軽トラックなどの所有者が増えているという。天康さんの話によると、村は現在、五百九十八戸、うち百六十四人が、嘉陵、五羊などのメーカーのバイクを持っている。特に重慶嘉陵と日本のホンダが合弁で生産しているバイクは車体が低く、小回りがきき、どちらかといえば小柄な人が多い南部の山岳地帯で歓迎されている。それに加えて荷物が多い場合は、後部座席をとりはずし、車体に直接荷物をくくりつけられるデザイン上の工夫が喜ばれている。 こうして交通は便利になりつつある農村だが、通信システムはまだ不便がある。数年前までは、村に果物の買付け人が訪れた時など、彼らに電話をかける用ができるたびに、天康さんがバイクに客を乗せて普威鎮の町の郵便局まで連れていっていた。客たちはその不便さをさかんにこぼしていたという。二年前、天康さんの家ではついに電話をとりつけ、バイクに客を乗せて往復する面倒も一挙に解決された。今では村には、あわせての四十六台の電話がある。そして市場経済化がすすみ、農民と外界の人々との連絡が増えるにつれて、天康さんの家の電話は、公衆電話にもなった。到着した日の夜、私たちが話しこんでいる間には、四人もの村人が電話をかけにやってきた。同じ村にすむ者どうしとはいえ、彼らは電話をかけ終わるとすぐ、それぞれ精算をしている。まさに親しき仲にも礼儀あり、といったことなのだろう。けれど、他人の家で電話をかけるのはやはり不便なもので、今、村では電話が急速に普及しつつある。 現在中国の聨通公司は、この機会逃さじと、農村での電話網整備に力を入れている。この村にもコンクリートの電信柱が建てられ、電話線が引かれた。多くのユーザーを獲得するため聨通公司では、先に電話をとりつけ、取り付け費用の三百元を後払いにするシステムにしている。それに電話機一台を無料贈呈する。先にサービス、後から集金のこのシステムができたことによって、村人の多くが電話取り付けの予約待ちをしているという。 村の家庭電化製品の普及にも目覚ましいものがある。九四.五%の家が大型カラーテレビを所有し、夜、時間があれば、その前で国内外のニュースや農業に関する情報、知識を得たり、あるいは、スポーツの中継やユーモアあふれる四川省の地方劇を楽しんだりもする。洗濯機も女性たちに大歓迎されており、村にはすでに三百四十八台があるという。また電気炊飯器や電熱器の所有も増えている。かつての村では家のなかで焚火しており、家が煤で真っ黒になるだけでなく、山林にも大きな損害を与えていた。今では電気で、便利に、清潔に暖まることができ、気持ちよく冬をおくることができる。 熱いシャワーに感激 夕食が終わると、天康さんは私に先に入浴するように勧めてくれた。浴室の床は、模様入りのタイル敷き、壁面は白いタイル貼りになっている。蛇口では、冷水、熱湯を思うままに調整できるほか、シャンプー、バスフォームも置かれていて、都市の浴室となにも変わるところがない。私は嬉々として熱いシャワーを浴びたが、この嬉しさは一日の疲れがとれるからというより、農村の衛生設備がこれほど改善されたことを身をもって体験できたことからだった。 村で熱いシャワーを享受できるようになったのは、二年前からのことだという。これまでは、夏、一日の労働を終えたあとは、男性と子供たちは村の川に行って一日の疲れと汗を流した。老人と女性たちは、頭から湯をかぶり、体を拭くぐらいだった。丸一日働いて疲労困憊した体で、誰がちゃんと入浴をしよう、などと思うだろうか? 冬になればなおさらのこと、吹きすさぶ北風のなかで誰も入浴などしようとしなかった。 この熱湯は台所の独特の形のかまどが供給源になっている。かまどは、穴あき練炭を熱源としており、練炭のまわりには螺旋状のパイプがめぐらされている。かまどで火をたくとパイプのなかの冷水は練炭の熱で暖められ、沸騰する。そして熱湯はパイプから、かまどの上部、天井近くに設けられた大きな熱湯タンクに蓄えられる。さらにタンクはぶ厚い布団でくるまれ、保温がなされている。このようにして二十四時間熱湯を使うことができる。この練炭の費用は天康さんの家では、一月二十元ほど。費用があまりかからないので「省エネルギーかまど」と呼ばれているが、これで入浴のほか、真冬に湯で野菜を洗うこともできる。主婦たちにとっては、何よりもそれが嬉しいという。 水道は、二年前、村人が資金を負担してひいたものだ。山の泉の水を、東側にある山の中腹の貯水池にひきこみ、浄化処理をすませ、各家に流す。各家が負担した資金は、貯水池までの距離の遠近によって、違いがあるという。天康さんが負担したのは、六百七十元。これで村人たちは毎日川まで水汲みに往復する重労働から解放された。 農家の一日 「コケコッコー!」オンドリのトキの声に目をさますと、天康さんはすでに起きていた。農家の朝は、ほんとうに早い。妻の陳さんは、長女に朝食を食べさせ、学校に送り出す。学校までは約三十分の道のり、八時には授業開始だ。あと何年かして普威鎮の町の中学校に上がる時には、学校内の寮に入らなくてはならない。娘を送り出した陳さんに向かい、今度はブタ小屋の四頭のブタがさかんに鳴いて空腹を訴えだした。陳さんは物置小屋からサツマイモのツルを運び、ブタに与えている。天康さんは、客間の掃除を終え、庭の掃除に取りかかっている。最後に陳さんの母親がまだ半分寝ぼけているような孫娘を起こして連れてきた。 家族が顔を洗い終えたら、ダイニングキッチンで朝食だ。朝食のメニューは、比較的簡単で、ご飯と炒めものを二皿。そして村人たちが「豆花白菜」と呼ぶ、湯豆腐と白菜を調味料につけて食べるものも食卓に並んだ。昼と夜はもっと多くの料理が並び、食堂で食べるという。 食事が終わると天康さんは、二階の貯蔵庫から、イガのついたままのクリを出し、北の棟の屋上に並べ天びん棒で打ち出した。今日はクリの買付け人が村に来る予定になっており、それに備えて村人は、クリ畑にいき、竹竿でイガのついたクリの実をたたいて落し(熟して地面に落ちてからでは、実がバラバラになってとても拾いにくいそうだ)天康さんのようにそれを打って、イガから実をとりだしておく。 太陽が高くのぼり南の棟にも日がさすと、陳さんは収穫したばかりの穀物を屋上で干し始めた。今年、鍾家では、一.九ムー(一ムーは約六.六六七アール)の水田で、千百五十キロの、ほぼ例年なみの収穫があり、家の食用にしても余りがでるほどの量だそうだ。 天康さんは、クリの作業を終えると、クリ畑に行き剪定を始めた。昨日の午後は、四川省林業庁に所属する簡陽苗木園の蔡氏が村を訪れ、クリの枝三万本を買いつけたいとの申し出があったという。蔡氏の計画は、その枝を接ぎ木にした苗木を、各地のクリ畑に売るというものだった。普威鎮の邱鎮長と天康さんの兄でもある村の果樹栽培協会会長の鍾天華さんは、申し出を聞き、すぐその場で話を決めたという。クリの枝一本につき値段は、〇.〇八元。利益はないが、優良果樹を互いに提供しあうことの利は、すでに農民の間では常識になっている。そこで村人たちは、今、畑で剪定をし、切り落した枝を百本ごとに束ねてビニール袋に入れ、車に荷積みする準備をしている。 村名の由来 鍾天華さんの案内をうけて、私はさらに村を回った。村は峡谷にあり、東西には山が連なっている。谷底を普威河が南から北へ流れる。この河は最後には安寧河に合流するのだという。河辺には豊かに実った稲田が広がり、その間には養魚池がみえ、太陽の光のもとその波が輝く。 普威鎮の行政区には八つの村があり、そのすべてが普威河に沿って南から北へ分布している。両側の山は船べりのようで、その間の平地は、船底にあるように見える。高い位置から全体を眺めると、まるで全体が船のようだが、独樹村は、その南端の船首の位置にあり、農家は東山のゆるやかな斜面と、西山のふもとに点在している。 山林と、まるで小さな灯籠のような金色の実をたわわにつけたカキの木を眺めていると、「独樹」という名前の由来が見当もつかない。天華さんに聞くと、ここから約二キロの西山の上に、かつて巨木があり、それが格別に目をひいたことからこんな名前がついたのだという。 独樹村および普威鎮の山々は、気候が温和で雨がよく降ることから、かつては豊かな原始林が広がっていた。一九五〇年代初め、普威の小学校の校長をしている卿尚達さんの話によると、県の中心の町から普威鎮までは、三十キロ。うち二十キロほどには樹木が密生しており、雨が降っても傘をささなくてもよいほどだったという。その後、普威造林場ができたが、創立してまもなくは、四人の職員が測量にでかけ、うち三人が密林のなかで迷い、今でも戻らないままという遭難事故が起きた。残りの一人はなんとか山をぬけ、イ(彝)族の村人に助けられて生還した。しかし四十年にわたる伐採のため、原始林の半分はすでに失われた。 幸いなことに造林場が伐採とともに植林を行っており、二期林の苗木はすでに成林となっている。しかし往時の原始林はもう元には戻らない。 一九九八年の長江大洪水ののち、中国政府の指導部は、長江上流域の天然林を保護する方針を打ち出し、すべての造林場および林業に従事する者に対し、伐採を禁止する措置をとった。山への出入りは禁止、チェーン.ソーなど伐採の道具を用いることを許されず、製材工場や、材木市場は閉鎖された。伐採に従事していた者は、植林に従事したり林の監視員になった。伐採の音が聞こえなくなった林からは、ヒョウやイノシシ、野ヒツジ、ヒグマなどが多く見かけられるようになったという。 果樹栽培協会を設立 アーチ型の石橋をわたると、西側の河原にナシ、モモ、サクランボなどの果樹園が広がる風景が見えてきた。果樹栽培協会会長の天華さんは、村の重鎮であり、その話によると、以前このあたりは荒れはてた河原だったという。「文化大革命」の期間にあたる一九七二年、当時の村の生産大隊長は、天華さんを村にやってきた知識青年たちのリーダーにして、荒れ地の改造をまかせた。今の彼は、やせているうえ、脊椎に持病があるが、当時は力持ちの青年だった。彼と知識青年たちは、灌木や雑草、石を取り除き、土を運び、二年の奮闘をへて、荒れ地を果樹園にし、リンゴやナシを植えた。数年後、果樹は育ち花を咲かせ、人々を喜ばせた。しかし、満開の花は半分ほどしか実を結ばず、それは小さく、味も劣っていた。その原因は、果樹の品種がよくなく、栽培技術が未熟なためだった。 一九八三年、天華さんは、果樹栽培協会を発足させた。初めはたった十三人の会員だった。彼らは、よその果樹園を見学し、剪定や接ぎ木の技術を学んだ。そして優良品種を取り入れ、接ぎ木による品種改良に務めた。彼らは、技術を学ぶだけでなく、学習班をつくり、技術の伝達にも務めた。今ではほとんどの果樹栽培農家が剪定、接ぎ木、病虫害の予防などの技術をマスターしている。その結果、果樹は実を多く結び、その形は整い、味もよく、村人に収入をもたらすようになった。 一九九六年、天華さんらは、果樹の人工受粉技術を広め、村の産する果物の質は、また一段とレベルアップした。例えば村で栽培しているナシの一種、北京鴨梨は、形こそ小さいものの姿は整い、果肉は繊細で柔らかい。農民たちは、その花粉を集め、村の優良品種である金花雪梨に受粉させる。このような人工受粉を行うことにより、実のなる確率が高くなるのはもちろん、そのナシは両品種のすぐれた点を備えたものとなる。つまり実が大きく、形が美しく、果汁は豊かで、果肉はきめ細かく柔らかい。今この品種改良されたナシは、米易雪梨と呼ばれ、有名品種となり、攀枝花、昆明、成都など国内の各都市だけでなく、ベトナムやミャンマーなどの東南アジア各国でも売られるようになっている。毎年、収穫の季節になると、各地の買付け人は果樹園にトラックを乗り入れ、ナシが箱に詰められるとすぐそれを運び去る。 果樹栽培協会では会員および非会員の果樹栽培農家に栽培の各過程の技術指導およびサービスを行う。その内容には、地おこし、施肥、剪定、優良品種の導入、病虫害の予防、人工受粉、採果、保存、出荷、車の手配、包装、品質検査、集金、支払いなど、栽培の流れにそったものになっており、農民たちに喜ばれている。会員は最初の十三人から今では百六十八人にもなっている。 中国農業部(省)は、天華さんを果樹栽培技術者として認定し、果樹の専門家の名に値するものとしている。今では彼は十ムーの果樹園を持ち、年収は二万元。数年後、果樹の実りが最も豊かになる年になれば、年収は三、四万元にもなるという。 天華さんは、果樹の根元に植えられたサツマイモや白菜を指差し、さらに説明してくれた。「これが立体農業です。このほかにジャガイモや大豆、漢方薬材を組みあわせることもあります。そして山の頂上には、マツやスギ、山の中腹には、クルミ、クリ、山のふもとや川岸や家の庭にはナシ、モモ、サクランボ、ビワ、ザクロ、山間の平地には稲を植え、養魚池をつくります。つまり地形と気候を立体的に活用するのです」 モデル農家の大きな影響 私達は天華さんのいとこである天才さんの家に到着した。三十七歳の天才さんは、中肉中背、濃い眉に大きな目、口を開けば実直な人柄が伝わってくる。訪れた私達のために、彼はすぐ門前の木に登り、雪梨をもいで皮をむき手渡してくれた。「農薬は使っていませんよ! 安心して食べてください」という。私は大きなナシを見て食べきれないのではと思い、天才さんと半分に分けようとした。ところが彼がいうには、村ではナシを半分にわけるという意味の「分梨」は「分離」と同音のため縁起が悪いとして、決してしないそうだ。食べてみると果肉はサクサクとして柔らかく、果汁はたっぷりしていて甘く、ついもう一つ食べたくなる見事な味だった。 天才さんはまた私が無農薬のナシに興味を示したのを見て、私をナシ園の前につれていき、果樹に引っ掛けられた円筒を指さした。「中に害虫を誘うフェロモンを成分とした薬が入っていて、虫がいったん中に入ると出られないような仕組みになっています」。この薬の有効範囲は三キロにも及び、村全体で三個も掛ければ十分だそうだ。ただしこの薬は、まだ実験段階にあり、あと二年もすれば本当に効果があるかどうか分かるそうだ。ナシの害虫を防ぐために村では、春、花のつぼみがついたところで農薬を一度だけ散布し、その後は農薬を使わないようにする。カキについては、農薬は一度も使わないそうだ。 寡黙な天才さんもまた果樹栽培技師として認定されている。そしてまた攀枝花市の「科学技術モデル農家十傑」の一家でもある。かつては一個三千百五十グラムもあるナシを実らせたこともあり、それは「ナシ王」と呼ばれているそうだ。ただし人々の間ではナシを分けることを避ける習慣があることと、大きすぎると輸送に不便なため、ふつうはナシ一個あたりは三百グラム前後になるように調整されている。 科学技術モデル農家は、農業科学技術普及のための組織系統の末端として重要な役割を担っている。組織系統は、北京の農業科学院、林業科学院、農業学会、林業学会、園芸学会をはじめとして、各省、市、県には農業科学研究所、林業科学研究所、各種学会があり、郷や鎮には農業科学技術工作ステーションがある。 独樹村のような農村では、果樹栽培協会のほかに、一級科学技術モデル農家、二級科学技術モデル農家があり、県、郷からの科学技術の発信地となると同時に、農村の科学技術普及のモデルケースとなっている。 今日の農業は、科学技術なくしてはありえない。普威鎮では毎年季節と作物の成長プロセスにあわせて、必要な科学技術学習コースを十〜二十回設け、水稲、小麦、野菜、漢方薬材の栽培、および病虫害の予防法について先進技術を伝えている。講師となるのは、大部分が省や市の農業の専門家や大学教授だ。彼らは現場の必要に応じて、実用的な科学技術、知識、技能を伝授し、農民はそうした技術を学び、実際に使ってみて著しい成果をあげることができるので、講座は大いに歓迎されている。 ある時、四川省の果樹栽培の専門家が村を訪れ講座を行うことになり、協会では六十人に通知を出した。ところがニュースが伝わるにつれ、百人以上もが会場を訪れた。会場に講座を聞きにきた農民があふれる様子を見た彼は感激し、農村でこれほど専門家が歓迎されるとは、とつぶやいた。またある時には、普威では十日間にわたる科学技術トレーニング班を行うことになり、八十人を限度として参加者を募集した。一人あたりの参加費と教材費はあわせて三十元だったが、フタをあけてみるとなんと百七十人もが参加を希望した。教材が足りず、中綴じの本を開いてコピーし、ようやく一人に一冊が行き渡るほどだった。 第二期生産請負制を推進 北京から記者が取材にきたという知らせが届くと、村の何茂友.党支部書記と村の幹部、それに鍾天康さんの二番目の兄でもあるグループリーダーの鍾天品さんがわざわざ私に会いにやってきた。 何茂友さんは、今年三十五歳の有能な書記だ。彼に村の概況を伺ってみると、一九.七平方キロの面積に、五百九十八戸、約二千三百八十九人が暮らすということだった。水田は千六百五十一ムー、おもに稲、小麦、雑穀などを栽培し、一人あたりの生産高は、四百九十キロになる。最近は果樹園の面積も増え、その一人あたりの面積は一.一ムー、昨年の一人あたりの収入は、二千三百六十五元ということだった。 改革開放後、農民は生産請負制のもと毎年国家に農業税、村に積み立て金をおさめ、それ以外の収入はすべて自分のものとなることになった。この制度は、農民の積極性を高め、生産高はあがり、農民の収入も増加した。昨年、国家で定められた第一次農耕地生産請負制は十五年の期限を終えた。この十五年間、人口と耕地が大幅に変化していることにより、国は第二次農耕地生産請負制を開始することになった。村では、新たに耕地を測量し直し、測量時の村の人口に応じて、一人あたりの耕地を〇.五六ムーとすることになった。土地柄によって水田の出来高には差があるため、比較的やせた水田を請け負う農民には、そのぶん面積が多く分けられることになった。この割り当てには半年の時間が費やされたが、最終的にはみなに耕地が行き渡り、村人みなが満足できる結果になった。 邱鎮長が言うには、今は果樹園が豊かな収入をもたらすようになっているが、果樹園は生産請負制の範疇に入らないため、農民は荒れ地を自ら開墾して果樹園にしているという。こうした現象に対して、政府はやむなく傾斜二十五度以上の斜面に果樹園を開くことを禁止し、土砂の流失を防ぐ対策をとっている。 土地請負制が三十年に延期されることになり、農民は気持ちが落ち着き、ますます畑仕事に精を出すようになっている。化学肥料は一時的に生産高を挙げるとはいえ、有機質の不足のため灌水や降雨のあと土壌が硬くなる現象が起きる。ブタや牛の糞や、クローバーやレンゲなどの緑肥はその点、肥料としての効果が長く続くだけでなく、土壌を軽く柔らかにする。そのため農家では、各家ごとに牛やブタを育て、その糞を肥料とするほか、緑肥となる植物を畑に育て、資源を循環的に利用している。 市場経済によって農民たちは各自知恵をしぼるようになった。耕地生産請負制により農民たちはさらに増産をのぞむようになった。稲の一期作あたりの収穫高は、一ムーあたり六百キロ、それに小麦の収穫高を加えると穀物は食べきれないほどだという。今では穀物の価格が下落しているため、穀物の栽培は農民にとって割にあわないものになっている。それで、食糧にじゅうぶんなだけの穀物のほかは、みな野菜や果樹、漢方薬材を栽培したり、養魚池をつくることもさかんだ。 天華さんの二つの養魚池の面積は、あわせて一ムー余りになる。そこでは千匹あまりのソウギョやコイを草をエサにして育て、祭りの日などに売るだけで、収入が得られるという。また養魚池の泥は畑のよい肥料にもなる。 メタンガスで変わる暮らし グループリーダーの天品さんは、四十五歳、背が高くがっしりとした体つき、濃い眉に大きな目、話し声は若々しくよく響く。農耕地生産請負制になったおかげで、作付け計画や収入の分配に頭を悩ますことは減り、人々をなだめすかして働かせるようなこともすっかりなくなったという。ただし、土地の測量、水利事業や果物の出荷、村の子供たちの就学問題など走り回らなければならないことは山ほどある。何かあればリーダー自ら模範を示さなければならないことは、もちろんだ。 近年来、県の中心の町付近では、メタンガスを利用するところが続々と現れた。人糞やブタの糞を地下の密封されたコンクリート製タンクに溜め、有機物を発酵させてメタンガスをつくる。そしてパイプから各家庭の台所にガスを引き入れ、調理に使うシステムだ。普威鎮政府の職員がきて村人にメタンガスの利用を勧めたが、村人の間では、最初、迷いがあった。寒さがきびしい山岳地帯の村の気候のためにうまくメタンガスができるかどうかを心配する村人もいれば、そのためにかかる費用の三千元が高すぎる、という農民もいた。確かにメタンガスタンクをつくると同時に、ガステーブル、パイプ、気圧計、それに浴室などの設備が必要になる。最低でも三千元はかかるのだ。 村ではまず六戸の家庭から範を示すことになった。グループリーダーの天品さんは、まず申し込みを行い、自ら出費してセメントやタイルなどを買った。邱鎮長はいくつかの農家が資金不足だと聞いて、鎮政府の職員から一万元の資金を集め彼らに無利子で貸した。農民たちはこの知らせを聞いて深く感謝したという。 こうして六戸にメタンガスが引かれると、村人はみな見学にやってきた。 「これからは柴刈りにいかなくてすむな! なんて楽なんだろう」とある男性は言う。「ガスはすぐ火がつく。薪で火を起こすのに比べたら、食事作りの早いこと!」「台所が煤で汚れない。ガス台もいつもきれいにしておける」と女性たちも感動した。その年、結局村では六十戸がメタンガスタンクを設置し、去年はまた六十戸が新設した。今年に至っては希望する農家はさらに多くなり、順番待ちをしているほどだという。 天華さんはメタンガスの利用は生態環境に対して良い循環作用があるという。 メタンガスが生成される過程で、ウジは駆除され殺菌も行われる。またメタンガスには山林を保護し、作物の収穫高を上げ、農薬の害を減少させるなどそのもたらす相乗効果ははかりしれない。 独樹村の若者たち 天康さんの隣人である李正発さんは、三十歳のイ(彝)族の男性だ。(普威鎮はかつてイ族自治郷で、九八年に鎮となった)体はがっちりとして、浅黒い顔立ちからは、豪放な性格が伺える。その日の午後はカキの出荷があり、彼ともう一人の村人は、それを箱詰めし、トラックに積み上げるとすぐ発車させた。 この取材の期間、私は果樹園の地おこし、除草、施肥、田んぼでの刈り入れ、脱穀、また村の街道では、クリを背負って運搬する人々を見たが、それらのほとんどが青年たちだった。大部分の若者は都会に出稼ぎに行き、残るのは老人だけになっているほかの農村とは大きな違いがある。 李世発さんは、村の共産主義青年団の書記で、彼が言うには、七百人の青年の大部分は村で働いている。もちろん一部には出稼ぎに出ている者もいる。李さん自身も十八歳の時、昆明に行ったという。なかにはもちろん成功した者もいる。ある若者は、深ロレに行き、厳しい生活に三年間よく耐え、村に戻って家を建てた。その反対に七、八年も出稼ぎを続けても相変わらず暮らしは苦しいまま、故郷の年老いた両親に会わせる顔もない者もいるという。 李さんに村になぜこれほど若者が残るのかを聞いてみると、主には果樹園がよい収入をもたらすからで、果物だけで一戸あたり一万元余りにもなるという。ところが出稼ぎでは、月の稼ぎはせいぜい四、五百元、都会でかかる生活費を引くと、いくらも残らない。 果樹園では剪定、人工受粉、収穫、出荷などに若者でなくてはならない作業が多くある。特に生い茂る枝を縄でしばり、光が通るようにして光合成をさかんにさせる作業は、若者がいなくてはとてもできない。さらに今日の先進技術を導入した農業の展開も若者の力にかかっている。能力を発揮でき、よい収入も得ることができる村の暮らしがあるのに、見知らぬ土地で苦労する必要などないのだ。 「独樹村は豊かな果樹園の村になりました。今は果物狩りツアーで、都会の人たちに農村生活を体験してもらおうと企画中です」李さんは、自慢気に話してくれた。 |