大江健三郎の見た北京

                 文・許金竜 写真・李聯朝

   

 
 

 昨年秋、ノーベル賞作家、大江健三郎氏は、中国社会科学院外国文学研究所の招きに応じ北京を訪れた。大江氏はこれまでに二度、中国を訪問したことがある。今度の訪中前、彼は取材に応じて「若い世代の率直な意見を聞きたい。未来に向かうあなた方にとって、日本人は信頼に値するのかどうか……」と語っていた。この問いにどんな答が出たのか、私達は共に生きることができるのか、大江氏の北京での四日間を追ってみたい。(編集部)

 

     

 

 2000年9月26日から30日、20世紀最後の秋に北京は日本から一人の賓客を迎えた。社会科学院外国文学研究所が招待したノーベル賞作家、大江健三郎氏である。私は仕事の関係で、すべての日程に同行する幸運に恵まれ、この英知と良心の作家にごく身近で接することができた。そして多くの中国の作家、評論家、学者、記者、読者、学生、そして運転手に至るまで――と同じように、世界に名声がとどろく存在でありながら、なお、きわめて素朴で自然な人柄に深く打たれたのだった。

         花束の贈り物

 大江氏が到着する数日前、間の悪いことに腰を痛めてしまった私は、静養を余儀なくされ、多くの準備が滞ってしまった。そのため彼を出迎えるにあたって欠かせない花束の用意も、実のところうっかり忘れてしまっていた。ところが26日、私達と共に車で空港に向かった女性記者の一人が、幸いなことにきれいな花束をちゃんと用意していた。ところが彼女はとてもしっかりしていて、先に大江氏と会うことになる私達に花束を「貸す」のを断固として拒否し、VIPルームに彼が入ってきたところで、満面に笑みをたたえて、自ら大江氏に花束を差し出した。大江氏は、その花束を抱えて外国文学研究所が主催した記者会見に出席し、さらに宿泊先の貴賓楼飯店に向かい、最後には丁寧に花瓶に花束を活けていた。

 二日目の夜、私達がホテルのそれぞれの部屋に戻ったところで、服務員が突然豪華なケーキを持って現れ、私の誕生日祝いに、ということだった。私はそこでようやく自分の誕生日を思い出し、大江氏と共に祝いたくなった。服務員に呼びに行かせると、彼はすでに床につこうとしていた。ところが理由を聞くと、部屋から出てきて、私の前に現れた時には例の花束と花瓶を抱え、誕生日の贈り物に、というのだった。そういうわけで、くだんの花束は、私の部屋に飾られることになったのだ。

          サイン会後の涙

 9月27日、北京の繁華街、西単にある図書大厦では、『大江健三郎自選集』全四巻のサイン即売会が行われた。

 作家の莫言、鉄凝、学者の葉渭渠、唐月梅、それに河北教育出版社の幹部に伴われて、大江氏は会場入りした。すると、「ノーベル文学賞受賞者、日本の有名作家大江健三郎先生サイン即売会」という大きな赤い字が巨大な電光掲示板に現れた。そこには数百名の読者が、朝早くから長い行列を作っていた。

 短い儀式のあと、大江氏は机に座り、サイン用の自分の筆記具を取り出した。一本は、墨汁用の毛筆、もう一本は青いインクが入った万年筆だった。彼は筆では「大江健三郎」と漢字を書き、その下に万年筆で「Oe kenzaburo」と記して、日本語の発音をローマ字で示した。

 サインを待つ読者の列は最後が見えないほど長く、大江氏は、サインの間、頭を上げることもできないほどだった。より多くの読者にサインしてもらうため、私は彼に「大江健三郎」だけでいいのでは、と提案してみたが、彼はただ頭を振り、そのままの方法でサインを続けた。彼の手抜きができない性格を見てとり、仕方なく私達は山ほど本を抱えている読者については、一冊だけサインをするように提案してみた。ところが大江氏はそれも気が進まないようで、目の前に出された本、その全てに、二本の筆記具で辛抱強くサインを続けた。

 ついにサイン会は終了の時間になったが、訪れた人はまだ長蛇の列になっている。大江氏が場を離れる様子を見て、一部の人々は焦り始め、列が乱れだした。次の予定に向かうため、私達がボディガードになって大江氏を囲み、図書大厦の係員に導かれて騒ぎの中をやっと抜け出した。

 車に乗り込んでもしばらく、大江氏は、ぼうっとしているようだった。感動を込めた一言がもれた。「感激しました。これほど多くの中国の読者が私を支持し、理解してくれるとは。私はこれまで日本ではサイン会はしたことがないし、第一、できないのです。中国の北京で、しかもこれほど盛大にサイン会ができるとは思いもよりませんでした。全ての読者が北京に駆けつけてくれたのではないかと思います。ドイツや韓国でもサイン会を行ったことがありますが、北京の読者が一番印象的でした。とても感動しました」。大江氏は眼鏡を上げ、にじんだ涙をぬぐっていた。

          泣き叫ぶ魂

 大江氏は、1960年と84年、中国を訪問している。16年の歳月を経ての北京再訪には、ことのほか多くの思いがあったことだろう。北京を訪れる前、ある新聞記者のインタビューに答え、彼は「今度の中国行きでは、若い世代の率直な意見を聞きたい。未来に向かうあなた方にとって、日本人は信頼に値するのか。アジア人にとって日本人は信頼に値するのかどうか。そして世界の人々にとって日本人は共に生きることのできる存在なのか……」と語っていた。そこで私達は特に、大江氏と若者達が共に語る機会を作ることにしていた。

 9月27日午後、大江氏は清華大学図書館のホールに現れ、満場を埋めた北京大学と清華大学の学生たちの熱烈な拍手で迎えられた。ここでは「北京の若者へ」と題した講演が行われる予定だった。このホールはかつて著名な劇作家、曹ぐうの在学中の作品『雷雨』が上演された場所である。大江氏は、慣れない中国語でまず学生たちに「好!」と声をかけた。

 この「好!」にはエピソードがある。1960年、初めての訪中で曹ぐうを訪ねた氏は、彼に向かって、学生時代から作品を書き始めた曹ぐうと同じように、自分も在学中に小説の創作を始めたこと、将来は『雷雨』のような優れた作品を書きたいと思っていることなどを告げた。すると曹ぐうは「好!」と答えたそうで、つまり、この中国語は曹ぐうに習ったのです、と大江氏はみなに語った。

 開口一番のユーモアあふれる話で、会場は大いに沸いた。続けて大江氏は、学生たちに向かって、幼少時代の自分の育った環境や、創作について、今関心のあることなどについて語った。

 スピーチのあと、大江氏と学生たちの質疑応答が始まった。清華大学の韓国人留学生から従軍慰安婦問題について質問が出た時、大江氏は沈痛な面持ちで答えた。

 ――南京大虐殺、慰安婦の問題は人類の悲劇であり、いかなる金銭を持ってもそれを補うことはできない。しかしそれは賠償が不要だということではない。その反対に、賠償という形式によって人類は、特に日本人は歴史の教訓を心に刻み、二度とこの悲劇を繰り返さないことだろう。そして、この形式によって中国人を含むアジアの人々に、心からの悔恨を示し、人々の許しを得ることができるだろう……。答える間、善良で正直な作家は、憂いの表情を隠さなかった。翌日、中国社会科学院で行われた「北京講演2000」中で、大江氏は中国の文化界、学術界のトップクラスの人々を前にして、再び憂いの表情を見せた。

 スピーチの最後、清華大学中国語学文学科の女子学生、杜そうさんがステージにのぼり、完成させたばかりの絵を贈った。それは『泣き叫ぶ魂』と題されたもので、画面は、灰色がかった青と暗緑色の線と、濃淡の灰色の塊で構成された抽象的なもので、全体は人の顔を思わせ、変形した目と口が見てとれた。彼女の絵は、大江氏の息子である光さんと家族に降りかかった不幸を表現したものだった。画面には大きな白い塊も描かれ、ひときわ目立っていた。これは大江氏一家の善良さと純潔を表現したものという。

 「泣き叫ぶ魂」は、大江氏の最新エッセイ集である『恢復する家族』に収められた一篇のタイトルである。この文章には、大江氏の愛息である光さんが、闘病生活のなかで音楽を創作していく、困難に満ちた過程が描かれている。光さんが心血を注いで創作した楽曲のCD録音が終了した時、大江氏はその美しい旋律の中に、暗く抑圧された魂の痛切な叫びを確かに聴いた。大江氏が清華大学を訪れる前、杜そうさんはこの一節を読み泣いた。そして絵筆をとり、涙を流しながら絵の創作にとりかかった。「私は泣き、驚き、心から震えました。私は光さんの泣き叫ぶ魂を、自分の言葉で絵に表現してみたのです」。作品にはこんな言葉が添えられていた。

 杜そうさんは、武漢出身、国内外の絵画コンクールで入賞歴がある。「大江先生は、文字で泣き叫ぶ魂を表現します。光さんは音楽で表現します。私は絵筆で表現したのです」とは杜そうさんの言葉だ。文字、音楽、そして絵に、私も魂の叫びを確かに感じた。そのなかに障害者の苦しみの叫び、南京大虐殺の三十万人の犠牲者の叫び声を聞き、原爆投下後の広島の廃墟を、アウシュビッツの強制収容所にあがる遺体を焼く煙を見た。人類に再びこのような悲劇が起きないよう、私は切に祈った。

      人民服とスーツと黒いシャツ

 9月27日、大江氏は、中国のコンピューター産業を代表する聯想グループのポータルサイト「FM365」を通して、若者たちとネット上で対話した。サイトから各人のパソコンには、大江氏の画像が送られた。ある若者は、偉大なノーベル文学賞受賞者のイメージにはそぐわない、時代遅れのメガネに、黒い詰め襟の人民服ふうの上着を着た、なんとも庶民的な大江氏本人の姿を自分のパソコン画面に見て、こんなメールを送ってきた。「魯迅の時代の人物です」。老作家は、それを見て思わず大声で笑いだし、しかも、この言葉の言外の意味を汲み取ってみせた。「そう言ってもらえると、とても嬉しいですね。私は魯迅に似ていると言われるのが、一番嬉しいのです。ただし、今の発言の意味は、私が魯迅本人に似ているという意味ではなく、まるでその時代の人間みたいに古くさい、ということですね」

 ホテルに戻ってから大江氏は電話をかけ、東京にいる夫人に、この日の愉快な出来事を語った。大江氏は、夫人も面白がるだろうと思って話したのだが、彼女の反応は違った。実は、大江氏の北京訪問にあたり、その服装について、夫人は多いに頭を悩ませた。大江氏の中国語の能力は、英語、フランス語、スペイン語のそれには、はるかに及ばない。万が一、街ではぐれてしまった時のことを考えて、夫人はわざわざ人民服ふうの上着を選んだのだった。その上着を着た大江氏の写真が『環球時報』に掲載されたことがあるので、迷った時は、それを見せれば、誰かが社会科学院外国文学研究所か、宿泊先のホテルに連れていってくれるだろうと考えたのだった。

 ところが、彼女の思いやりは、かえって夫が「田舎くさい」といわれる結果になり、夫人は居ても立ってもいられない気持ちになった。夫人は、一番スマートなスーツを選び出し、成田空港へ向かい、それを中国国際航空の一番早く北京に到着する便のスチュワーデスに託し、彼女自身の手でホテルにいる大江氏に渡してくれるよう、頼みこんだのだった。

 大江氏は、無事スーツを受け取り、さらに夫人の指示に従い、ホテルのショッピングアーケードで美しい黄色のネクタイを買った。そういうわけで、翌日午前、李鉄映・中国社会科学院院長の応接室に現われた時の大江氏は、前日までの装いをすっかり改め、英知に富んだ会話をする姿は、いっそう際立って見えた。

 9月29日早朝、エレベーターに彼と乗り合わせ、一緒に朝食に向かおうというその時、また服装が変わっているのに気がついた。昨日のネクタイははずされ、その代わりに薄いウールの黒いシャツ姿だった。

 私の視線に気がついたのだろう、席に着くと彼は、昨夜、夫人からもたらされた悲しい報せを私に語った。イギリスの老詩人、ステファン・スペンダーが90歳で亡くなったのだ。老詩人は世を去るにあたって、昔からの友人である大江氏に、葬儀に出席して欲しい、と遺言に残していた。豊かな感情の持ち主である氏は、昨日までの興奮からうってかわって、悲しみに沈んでいた。彼は泣いた。そして、帰国する日に、葬儀に参加するための喪服と使い慣れた英語辞典とを持って、成田空港に来てくれるよう夫人に頼んだ。そして本人は、空港のホテルで徹夜で追悼文を書き、翌日朝一番の飛行機でイギリスに向かい、友人を送る最後の式に駆け付けるという。最後の講演がまだ残っているため、大江氏は悲しみをできるだけ抑えるよう努力し、昨夜は冷蔵庫にあったビールを飲み、アルコールの力を借りて無理に眠るようにした。黒いシャツは、友人への哀悼の意をこめたものだったのだ。

(つづく)