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隋・煬帝の墓と歴史の謎(上)

 

何度も埋葬された煬帝

2号墓から出土した辟雍硯(へきようけん)。硯面中央が円形で、周囲に水がたまる形。古代の学問の場だった辟雍の建築様式になぞらえて、辟雍硯と名付けられた

2号墓の発掘と埋葬された人物の特定から、煬帝が何度も埋葬されたことが分かる。史料によると、煬帝は揚州にある江都の宮殿で近衛兵を率いる将軍の宇文化及に殺害されたが、その後蕭皇后と女官は赤いウルシを塗った寝台の板で棺を作り、江都宮にある流珠堂に埋葬した。宇文化及が部下を率いて離れた後、江都を守る将軍の陳棱は煬帝の恩に報いるため、呉公台に改葬した。唐が江南を平定すると、唐の高祖・李淵は煬帝の墓を揚州の北にある雷塘に改葬するよう命じた。武徳5年(622年)のことだった。貞観22年(648年)に蕭皇后が病死すると、唐の太宗・李世民は人に命じて彼女の遺体を江都に送って煬帝と合葬させた。ここから、煬帝は死後、少なくとも4回埋葬されたと推測される。

通常皇帝の埋葬された場所は「帝陵」と呼ばれるはずだが、専門家らは煬帝の墓をそのまま「墓」と呼ぶことにした。これについて、王巍教授は次のように説明している。「正規の帝陵なら、神道(墓道)、石人、石馬などがあるはずです。こうしたものがいまだに発見されていないため、帝陵と呼ぶのは尚早ということです。煬帝は亡国の皇帝です。ですから副葬品は精美なものをそろえても、封建社会の礼法に基づけば、墓自体を唐代の最高規格で造営するわけにはいかなかったのです。煬帝の墓は小規模で哀冊もありませんが、これも前王朝の亡国の皇帝に対する唐代統治者の態度を示すものです」

唐から楊広には貶める意味を持つ「煬」の諡が与えられ、彼は後の世の人々にさんざんにののしられた。では、現代の私たちはどのように煬帝を評価すべきなのだろうか?

 

隋・煬帝の墓と歴史の謎(下) 「希代の暴君」?「先見の政治家」?

 

人民中国インターネット版 2014年5月5日

 

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