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周恩来総理と中日関係(下) 生誕110周年にあたって

 

新たな時期に入った中日関係

 

 

交渉が基本的に合意に達した9月27日の夜、毛主席は田中首相と大平外相、二階堂官房長官と会見した。一同が席に着くやいなや毛主席はユーモアたっぷりに「どうでしたか。喧嘩をしましたか」と訊ねた。田中首相は「少し喧嘩しましたが、問題はすでに解決しました」と答えた。毛主席は「喧嘩して結果がでたので、もう喧嘩をしないのですね。世の中に喧嘩をしないですむものはないのです」と述べた。

 

ここで言う「喧嘩」とは、歴史問題と台湾問題を指している。双方は一時間、中日関係から国際情勢まで、また古今の事について、真剣で友好な話し合いを行った。その内容は豊かで多彩なものであった。

 

1972年9月29日、中日両国はついに共同声明を発表し、中日国交正常化を実現した。これによって両国関係史における新たな1ページが開かれ、中日関係は新たな歴史的時期に入った。これは両国の人民が、20余年にわたり刻苦奮闘した結果であり、両国の先輩政治家や有識者たちが心血と知恵を注いだ結晶である。さらに両国の指導者たちが自分の国家利益から出発し、時代の流れに順応し、大所高所からものを見て下した偉大な決断であった。

 

これ以後の一定の期間、両国は政治や経済、科学技術、文化、芸術、スポーツなどでの交流と人の往来がかなり大幅に増加した。10数の日本の化学肥料や化学繊維プラントが導入され、上海宝山製鉄所の建設プロジェクトに日本の技術を採用することが決まり、1年の間に数千人の若者たちが相互訪問することなどがこの時期に実現した。

 

30余年の実践は、両国の指導者たちの決断が正しかったことを証明している。中日の友好協力は、両国人民の根本的利益に合致し、政治や経済などの各方面で両国に多くの実際の利益をもたらし、アジアと世界の平和と安定を守る上でも、重要な貢献を果たした。中国は日本と離れることはできないし、日本も中国と離れられない。両国は友好協力してこそ、ともに発展することができる。これはすでに中日両国の政府と人民の共通認識となっている。

 

中日関係は新たな時期に入ったが、周総理の視線はそこに止まらず、さらに遠い先を見て、2つの理念を打ち出した。

 

1つは「水を飲む時に、井戸を掘った人を忘れてはいけない」ということである。これは、中日国交正常化の直前、周総理が古い友人である岡崎嘉平太氏と古井喜実氏に会った時に提起された。周総理は「我々は『官』があるからといって、『民間』を忘れてはならない」と述べた。そして岡崎氏や古井氏のような、中日関係を推進するために貴重な貢献を果たし、命も惜しまない日本の友人たちに敬意を表した。

 

そして周総理は再三、この言葉を用いて内部で働く人たちを戒め、「新しい友人と親交を結び、古い友人をも忘れない」よう求めた。周総理は歴史的に大切な時期に、中華民族の伝統的美徳を反映した理念を提起したことは、日本の友人たちを深く感動させただけでなく、中国人民をも教え導いた。

 

もう1つは「前事を忘れざるは、後事の師なり」である。中日国交正常化は、法理論上は、中日間の過去のあの不幸な歴史にピリオドを打つものであったが、しかしその歴史を抹消したわけではない。歴史は客観的に実在し、決して抹消することはできない。中日双方とも、これをしっかりと記憶にとどめておかなければならない。その目的は、昔の恨みを晴らすためではなく、その中から教訓を汲み取って不幸な歴史を2度と繰り返さないためである。

 

周総理は1972年の田中首相を歓迎する宴会でこう述べた。「1894年以来の半世紀の中で、日本軍国主義の中国侵略によって中国人民は重大な災難をこうむり、日本人民もまた深い被害をうけました。『前事を忘れざるは、後事の師なり』と言いますが、我々はこのような経験と教訓をしっかりと銘記しておかなければなりません」

 

周総理の深慮遠謀が重大な戦略的意義を持っていたことは、事実が証明している。

 

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