曲折を経て造営された昭陵
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福陵の大紅門外の下馬坊 |
清の太宗ホンタイジの陵墓である昭陵は、清の関外三陵の中で、規模がもっとも大きく、もっとも精美につくられ、もっとも完全に保存されている。しかし、その造営には幾多の紆余曲折があった。
ホンタイジは父と同じく、生涯、軍事や戦争に明け暮れ、西へ東へと出陣を繰り返し、在世の間に自分のための陵墓の地を選ぶことができないまま急死した。このため慌しく瀋陽の北郊に、臨時の陵墓が建てられた。昭陵は崇徳8年(1643年)8月から建設が始まり、1カ月後に享殿が完成した。ホンタイジの骨壺は、すぐに陵墓の享殿に安置された。
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昭陵の神道 |
昭陵の建設地は山に面してもいないし、山懐に抱かれてもいないので、風水の観点から見れば、陵墓を建てるには適さない。そこで遠くから土を運んで、陵墓の後ろに高さ20メートル、長さ380メートルの山を築いた。こうして順治8年(1651年)に、昭陵はやっと正式に完成した。
福陵と比べて昭陵の工芸はいっそう豪華で、造営ルールや構造はさらに合理的である。
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昭陵の石馬
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昭陵の正紅門の前に、精美な彫刻が施された遼陽産の青白色の石牌坊が中軸線上にそびえ立っている。石牌坊の下には大きな月台(正殿の前にある階段のある台座)が築かれ、欄干がそのまわりを囲み、華麗さと壮大さをいっそう際立たせている。正紅門の両側の壁には、からみついている五色の瑠璃の竜が象眼されている。
正紅門から隆恩門までの道の両側には、華表と六対の石像が並んでいる。それは獅子、カイ豸(伝説上の獣)、麒麟、馬、駱駝、象である。福陵と比べると、瑞獣のカイ豸と麒麟が増えており、また皇帝陵にはあるべきではない虎が象に替わっている。言い伝えによると、その中の一対の馬は、ホンタイジが生前にもっとも愛した二頭の馬の「大白」と「小白」を模して刻まれたものだという。
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美しい装飾が施された昭陵の隆恩門のアーチ門 |
隆恩門は陵墓の本体部分の方城に入る大門である。その建築は精美で豪華だ。石造りのアーチ形の門の外壁は、両側の柱の基礎の上に、松の図案が浮き彫りになっていて、アーチの部分にも雲の模様の装飾が浮き彫りにされている。
360年あまりの風雨に浸食されたが、今でも当時の彩色の顔料が残っていて、当時、どれほど美しかったかが想像できる。門の扁額の上に、木造建築を模した瑠璃の部材が象眼され、そこには飛竜や鳳凰などが浮き彫りにされている。それは明らかに中原文化の影響を受けたことを示している。
方城の真ん中には、祭祀活動を挙行する隆恩殿があり、両側には東配殿と西配殿がある。隆恩殿の南西側にはさらに、祭祀のときに使われる、祝版(神を祭る際に祝文を書く紙)や紙幣、五色の紙などの供え物を焼く焚帛炉もある。隆恩殿の後ろは二柱門と石の五供(五種類の祭祀用具)があり、その後ろに明楼とホンタイジの墓の墳丘がある。
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