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遼寧省・瀋陽市、新賓県 山海関を超える 前の皇帝たちが眠る

 

四祖を祀る永陵
 
昭陵の隆恩殿の台座にある精美な彫刻
 永陵は、瀋陽から150キロ離れた撫順市新賓満州族自治県にある。この愛新覚羅氏の先祖の墓地は、大清の第一陵と呼ばれ、その中に「肇祖原皇帝」モンティムール、「興祖直皇帝」フマン、「景祖翼皇帝」ギオチャンガ、「顕祖宣皇帝」タクシの四人の皇帝とその皇后が埋葬されている。

 永陵はだいたい16世紀の中ごろ、明の嘉靖年間の中後期から建設が始まった。敷地面積は1万1000平方メートルで、清朝の12基の皇帝陵の中でもっとも小さいが、ほかの清の皇帝陵にない特色もある。

 

昭陵の方城の城内
 永陵の正門である正紅門から陵墓区に入ると、一列に並んだ四つの碑亭が現れる。碑亭の中には、東から西へ順に、「景祖翼皇帝」「肇祖原皇帝」「興祖直皇帝」「顕祖宣皇帝」の「四祖」の神功聖徳碑が立っている。一つの皇帝陵に四人の皇帝が埋葬され、四つの神功聖徳碑亭が建立されているのは、清朝の皇帝陵の中でここしかない。

昭陵の明楼と墳丘
 この四つの碑亭は清の順治12年(1655年)から順治18年(1661年)にかけてつくられた。碑の本体はもともと赤、黄、青、白、黒の五色で彩色を施され、碑文は黒地に金色の字で書かれていた。今でもかすかに彩色が残っている。

昭陵の隆恩殿の後ろにある二柱門と石の五供
 もっとも特色があるのは、碑亭の柱角石とアーチ門の柱の基礎に施された「座竜」の浮き彫りである。竜は頭を上げ、胸を張って、尾と三本の足を地につけて、犬の「お座り」の形で座っている。その形は普通の竜と大いに違う。これは、長い間に草原で暮らしていた満州族が犬を崇拝しており、その習俗を反映している。これらの犬形竜身の図案は、満州族の伝統的色彩を濃厚に残していると、専門家は考えている。

 四祖碑亭の前の東側は、皇室の陵墓の墓守りが宿直する大班房(部屋)と、祝版を書いて奉納する祝版房で、西側は茶房と厨房、祭祀用の器を洗う房がある。碑亭から方城や宝城に行く唯一の門は啓運門である。門前の東西両側には、それぞれ果房と膳房があり、当時、祭祀の儀式を行うときに供え物を作った場所である。

 

 啓運門の両側の袖壁(正門の両側にある壁)の真ん中に、とぐろを巻いた竜や海の波、吉祥の雲などの文様が刻まれている。

 

永陵の四祖碑亭の柱角石とアーチ門の柱の基礎に刻まれた「座竜」の浮き彫り。それは満州族が犬に崇拝する習俗を表している
 遠くから見れば、これらの素材は瑠璃のように見えるが、実には泥で形を作り、窯で焼いた後、磨いてぴったりとくっつけ、さらに色をつけてつくったもので、「磨磚対縫大竜墻」と呼ばれる。これが啓運門の雄大さをいっそう引き立たせている。

 宝城に入ると、真ん中には啓運殿、すなわち享殿がある。殿の中には仏壇のような四つの「大暖閣」が一列に並んでいて、その中に四祖の位牌が安置されている。すべての「大暖閣」の前に、それぞれ竜(皇帝)と鳳(皇后)のベッド各一台、竜と鳳が刻まれた机、琺瑯の五供などが置かれている。

永陵の啓運殿の中にある四祖の位牌
 啓運殿の後ろには、四祖の陵墓がある。そのうちの三基はそれぞれ興祖皇帝と皇后、景祖皇帝と皇后、顕祖皇帝と皇后の合葬墓で、もう一つの陵墓は肇祖皇帝と皇后の衣冠冢(死者の衣服などの遺物を葬ってある墓)である。

 驚いたことに、この四基の帝王の墳丘は、「版築」(土を突き固めてつくる建築法)でもなく、レンガを積んで築いたものでもないことだ。普通の庶民の墓のように、ただ土を積んだだけのもので、清朝の皇帝陵の中でもっとも簡素な陵墓だと言えるだろう。  (劉世昭=文・写真)

 

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