「物見の岩」で技術を磨く
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「女神の山」と称されるチョモラリ(綽木拉日)峰(7326メートル)。1996、日中合同チョモラリ峰登山隊は、全員登頂の快挙を成し遂げた |
1981年春、王振華を団長とする九名が来日した。中国の団員たちの中には、人民服の姿もあった。
研修会場を長野市郊外にある「物見の岩」とした。たかだか20メートルそこそこの岩場ではあるが、この岩は私たちの道場であり、夢を語る場所であり、すでにここからヒマラヤへの夢を実現させた心と意気が宿る場所である。
日本側の指揮官は、この計画の発案者でもある吉沢一郎(長野県山岳協会理事)だった。彼は山仲間からは「大将」と呼ばれていたが、現場での指揮は厳しかった。朝から夕方までひたすら岩と格闘した。
研修の主眼は、「登る」技術よりも「身を守る」技術の徹底であった。この考えは、中国の従来の登山観に大きな影響を与えるものだった。私たちは一見地味にも見えるこの研修の重みを理解して、知恵と力を出しあった。中国登山協会副主席の許競からは「厳しい訓練を希望する」との書簡も届いていた。
訓練が終わっても、「カンペイ」は一切なし。資金が乏しいこともあったが、宿泊は仲間の山荘を借りたり、自宅を提供したり、昼食は日本側研修員の奥さんが作るオムスビであった。
中国で育つ若い指導者
2年目の研修は、中国新疆ウイグル自治区の天山山脈ボゴダ峰で行われた。ここでは、氷雪の技術が中心となった。ここでの訓練も真剣かつ厳しいものだった。6回目の研修では、ついに7000メートルを超えた。チョモランマ峰の隣にあるチャンツェ峰(7850メートル)を舞台に、高所登山の領域にも足を踏み込み、登頂にも成功した。
10年間に及ぶ日本と中国を交互に訪れて実施された合同技術研修は、中国では、主だった山岳をもつチベット自治区、四川省、青海省、新疆ウイグル自治区の若い指導者を育て、日本にも多くの指導者が育った。
当時、私は長野県山岳協会の会長の任にあったが、中国登山協会の主席であった史占春が「中国の近代登山は長野から始まった」と評価したことを忘れない。
合同研修会が続く中で、いくつかの交流事業も生まれた。高校生の登山サークルの交流(1988~1994年)へと広がり、また、1988年には長野県山岳協会とチベット登山協会の友好兄弟協定が締結され、記念事業として合同で未踏のチャンタン高原の登山探検隊(1990年)が組織されて、ザンセル・カンリ峰(6460メートル)に初登頂。同年北京市郊外の懐柔県にある中国登山協会登山訓練センターに人工岩場を寄付して、スポーツクライミング競技の先鞭の役割を果たすなど、交流は大きく広く発展したのである。
「人類は交流によって進化する」という諺があるが、日中合同登山研修会は、大木のように、合同研修会がしっかりした幹となって、いくつもの太い枝をのばし、その枝に信頼と友好という立派な葉を繁らせることができたのである。
汗の代償のロマン
時代は進み、今、中国の登山界は大きな発展を遂げていると聞く。指導者たちのほとんどは、長野で厳しい訓練を共にした友人であることを、私は嬉しく思い、また、誇りでもある。
その中国の友人たちは、長野にくると一様に「故郷に帰ったような気持ちだ」という。私もまた、中国を訪れるとき、同じような感覚を覚える。
長く登山家たちの目標であった、初登頂と初登攀の時代は終わりに近づいたとはいえ、登山は自分自身の中のパイオニア精神を追い求める行為である、と私は思う。流す汗を代償としたロマンの世界なのである。
そして、中国の友人たちとの友情はこれからも続いていくことだろう。(文中敬称略) (元長野県山岳協会会長、現顧問田村宣紀)
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