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慈覚大師円仁 円仁は、838年から847年までの9年間にわたる中国での旅を、『入唐求法巡礼行記』に著した。これは全4巻、漢字7万字からなる世界的名紀行文である。仏教教義を求めて巡礼する日々の詳細を綴った記録は、同時に唐代の生活と文化、とりわけ一般庶民の状況を広く展望している。さらに842年から845年にかけて中国で起きた仏教弾圧の悲劇を目撃している。後に天台宗延暦寺の第三代座主となり、その死後、「慈覚大師」の諡号を授けられた
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840年旧暦8月22日、円仁は大唐の都長安に到着、春明門を通って城内に入った。
現在ここは西安理工大学の学生用レクリエーションセンターの正面に当たる。授業の合間をぬって足早に通り過ぎる学生たちを眺めながら、このうちいったい何人が、これほど歴史的な場所を踏んでいることを自覚しているだろうかと思った。大唐の都はかつて世界最大の百万都市であり、春明門はその主要な門の一つであった。
日本人僧円仁はこの都でほぼ五年を過ごそうとしていた。城壁に囲まれた長安は碁盤の目状に設計され、大明宮が北側城壁から北に突き出していた。
栃木県立博物館の千田孝明氏による「唐代の長安地図」には、円仁が日記の中で言及している場所が示されている。これを見ると、円仁がいかに精力的に城内の仏教行事に参列していたかが一目で分かる。円仁の豊富な見聞録からは、徹底的な仏教弾圧の直前まで、これらの寺院が強大な力を振るっていた様子を知ることができる。この弾圧は円仁が長安に入った数年後に起きたのだった。私は、現在の西安が過去25年間、その歴史遺産を再建するのを興味深く見守ってきた。
当時、宗派間の境界はさほど厳格ではなかったので、円仁はいわゆる「長安7大寺院」で、宗派の異なる高僧に学ぶことができた。しかし不幸なことに、ほとんどの寺は845年に廃寺となった。特に重要なのは、円仁が大興善寺、青龍寺の2寺で密教を学んだことである。
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