資聖寺遺跡
円仁が長安で5年間、実際に住んだところは資聖寺であったが、これは一行の首都滞在を認可した官庁の手配によるものであった。この官庁は左街功徳巡院といい、東長安の寺院に対する管轄権を握っていた。「左」とは、南面して玉座に座る皇帝の左側という意味である。資聖寺は都の中央部にあり、城内のさまざまな寺に歩いて行くことができた。
遺跡は、明代(1368~1644年)の建国門のすぐ脇、今ではごみごみと小屋のひしめく細長い一角である。円仁がかつて眠った場所で、子どもたちはトランプに興じ、女たちは洗濯をしていた。「夜、心に毘沙門(四天王の一人で仏教の守護神)を念じて誓願し、仏法に通じた師を示し給えと祈る」と円仁は記している。
大興善寺山門
円仁と弟子たちが最初に向かったのは大興善寺であった。その山門は現在も唐様式をとどめている。ここは、2人のインド高僧によって密教が直接もたらされた所として知られ、昔も今も中国で最も重要な寺の一つである。私がこの山門をくぐると、寺の職員がすぐに住職のもとへ案内してくれた。
唐様式の屋根(青龍寺)
西安市東部の小高い崖の上に、有名な青龍寺が、唐様式を踏襲して最近再建された。これは日本における真言密教の開祖、空海の信奉者たちの援助による事業であった。空海は804年から806年までここに逗留していたのである。円仁は青龍寺に行き、数人の著名な僧の指導の下で胎蔵界曼荼羅を学び、さらにここに滞在していた高名なインド学僧についてサンスクリットと哲学をも学んだ。また金銭を投じて、長安でよく知られた画工に委託して宗教画と曼荼羅を模写させている。(阿南・ヴァージニア・史代=文・写真 小池 晴子=訳)0807
大興善寺の住職、界明和尚 |
大興善寺の石碑 |
座禅の僧 |
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現在の界明住職は、円仁がこの寺で有名な曼荼羅、とりわけ金剛界曼荼羅について学んだことをよく知っておられた。
住職は、円仁がかつて居住していた場所を示す石碑を指し、さらに敷地の西側にある土手の上に、現在、棟を連ねた2つの亭を建築中であると話してくれた。2棟の亭は日中友好を表している。
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この石碑には寺の見取り図が描かれている。
円仁は境内の東北隅で学んでいた。
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興教寺でこの僧を見たとき、長安にあって厳しい座禅と読経に明け暮れる円仁を思った。
841年旧暦5月3日、円仁は青龍寺で灌頂を受けた。この儀式には、曼荼羅に向かって花を投げ、花の落下したところに描かれた本命星の庇護を祈願する供養が含まれる。円仁は帰国後比叡山に御堂を建ててこの儀式をとりおこなった
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阿南・ヴァージニア・史代 米国に生まれ、日本国籍取得。10年にわたって円仁の足跡を追跡調査、今日の中国において発見したものを写真に収録した。これらの経験を著書『「円仁日記」再探、唐代の足跡を辿る』(中国国際出版社、2007年)にまとめた。
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人民中国インターネット版 2008年9月8日
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