手工芸がもたらすやすらぎの世界
ミャンマーのエーヤワディー川中流域の東岸に広がる平原に位置する「万塔の城」――バガン城の朝 |
職人が伝統を生かす
バガン(パガン)は、ミャンマーのエーヤワディー(イラワジ)川中流域の東岸に広がる平原に位置する。
言い伝えによれば、1044年、ここにバガン王朝を建てたアノーラター王が隣国を征服したとき、『三蔵経』32部及び上座部(小乗)仏教の仏教徒3万人、すぐれた腕前の職人たちを連れ帰ったという。その職人たちは、造塔技術をもたらした。敬虔な仏教徒である王は、大きな出来事が起こるたびに仏塔を建立して奉納し、祈りをささげた。次第に大臣や豪商、しまいには庶民たちまでがそれをまね、敬虔なこころを示すために仏塔をつくって奉納するようになった。こうしてバガンでは、熱狂な造塔運動が2世紀にわたって続いた。
学者の研究によると、バガン平原にはかつて1万3000基の仏塔がそびえ立っていたという。ゆえにバガンは「万塔の城」と呼ばれる。
広々とした原野には、今でも2230基の古塔と416軒の寺が残っており、バガンはその敬虔なこころと精巧な技術も受け継いでいる。
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バガン王朝時期の彫刻 |
バガンの古塔の壁画 |
ウ・マウン・マウンさんは、その伝統を受け継いだ一人である。バガン生まれのマウンさんは敬虔な仏教徒であり、8人の子供を抱える父親でもある。彼は妻のダウ・サンサン・ウィンさんと漆器工房を営んでいる。バガンには同様の漆器工房が百軒以上ある。
朝日が射しこみ、バガン平原を漂う霧がきらめく朝、ウィンさんは家の戸口に立つ。托鉢の沙弥が来るのを待つのである。静かに歩いてきた沙弥の漆鉢に、特別に蒸したご飯を盛った後、彼女は庭にもどり、飛んでくる鳥たちに食べものを与える。マウンさんも家の前に腰を下ろし、同じものを食べる。
職人たちが次々と作業に取りかかり、その日の仕事が始まる。
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ミャンマーの漆器工場で漆器づくりをする女性 |
漆器は天然の漆を事前に編んだ原型に塗りつけ、乾燥させることで完成する。バガンの漆器に使われる漆は、ミャンマー南部の山間地区に生長するウルシの木からとったものである。ウルシの木の皮から抽出した漆は、ガーゼで3回ろ過しなければ漆器の製作に使うことはできない。漆器の原型はふつうやわらかい竹と馬の尾で編んだものを用いるが、漆箱のような木製の原型を使う器もある。漆を塗る前に原型を何度も削り、磨く。なるべく軽く薄く、なめらかでつやが出るように仕上げる。漆を塗りつけた原型は、日にあてたり火や電熱で乾かしたりせず、1~2週間ほど穴蔵の中に置いて風にさらし、ゆっくりと乾かす。そうして乾かした漆器を、水にひたしながら磨く。つやが出るまで磨いたあと、もう一回漆を手作業で塗る。漆器の完成までに、ふつう漆を12回塗り重ねる。漆を塗る作業がすべて終わると、表層の漆に一定の厚みができ、その表面に刀でさまざまな柄や図案を彫ったり切り抜いたりすることで、漆器に立体感と豊かな色合いをもたす。一つの漆器は完成まで、半年ほどかかる。
「漆器はぶつけ合っても割れません。ほら、こんなふうに。お湯を入れても大丈夫」
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職人仲間とともに技術を磨くウ・マウン・マウンさん(右) |
バガンは職人の町で、住民のほとんどがさまざまな道具や器を製作することで生計を立てている。この地の手工芸の歴史は非常に長く、バガン平原にある仏塔はすべて職人の手でつくられたものである。職人たちは山を拓き石を選び、仏塔を建造するだけでなく、金箔や玉を加工し、それで仏塔を飾りたてる。塔内のすぐれた彩色の施された土人形や壁画も、職人たちの手によるものである。
バガンには、長い歳月を経て受け継がれてきた数え切れないほどたくさんの傑作があるが、ひとりひとりの作者の名は残されていない。作品によって名をあげるなど、ここの人々は考えたこともない。バガンには現代社会におけるいわゆる芸術家がいない。ここでは芸術はもはや信仰の一部となっており、仏教信仰を高めること以上に栄光なことなどないからだ。
ウィンさんは週に一度市場に出かけ、野菜や日常用品の買出しをする。この大きな市場で、食べ物や服や日用品、さらに旅行記念品までなんでも揃う。バガンではタクシーが少なく、英国風の馬車がバスがわりである。のんびりとした足取りの馬が、古塔や緑の木々の間をパカパカと進んでゆく。御者は大声で追い立てることもせず、馬車の乗客たちは知り合いであろうとなかろうと、互いに挨拶を交わしたりおしゃべりをしたりしている。