タクシー運転手は街のスポークスマン

世界と付き合うとき、ほんの小さな体験が拡大されて、決定的な印象になることがよくある。

ドイツのハンブルグに行った時のことである。中型のバスをチャーターしたが、途中で一人がトイレに行きたくなった。ドイツの運転手はすぐに近くの大きな会社に車をつけ、門衛に事情を説明し、たちどころに問題を解決した。またこの運転手は、私たちがハンブルグを去るときに、ドイツ民謡の『別れの歌』を歌ってくれた。彼は私たちに「ドイツ人は友好的だ」と、強く印象づけたのだった。

日本の仙台市で、東北大学の集積回路実験室を訪問する途中、20世紀初めに日本に留学した魯迅先生が住んでいた場所を通った。タクシーの運転手は「ここは駐停車禁止ですが、あなた方はお客さんなので、二分間停まっても警察は罰金を払えとは言わないでしょう」と言った。もしドイツだったら、こんなに融通はきかなかっただろう。私たちは車を降りて写真を撮り、すぐに車に戻った。

魯迅故居の前には、荒削りの花崗岩の石碑があったが、高さは1メートルあまり、幅は20センチほどしかなかった。日本側の随行者は「この石碑は少し小さすぎる」と言った。するとタクシーの運転手は「ちょっといいですか」と前置きして「たぶん、魯迅のような偉大な人物に質素な石碑を立てることで、いっそう魯迅が偉大に見えるのではないでしょうか」と言った。

私はこの運転手の話はすばらしく価値あるものだ、と思った。そして「日本の運転手の教養は本当に高い」と思わず知らず感じたのだった。

1981年、私は初めて米国を訪れた。帰国のためケネディー空港に向かう高速道路で、私たちの乗った乗用車が、大型コンテナ車に激しく追突され、乗用車は完全に壊れてしまった。そのとき一台のタクシーが停まって、「空港に送ろうか。ケガをした団長さんを空港のそばの病院に送ってもいいよ」と言った。

この団の団員は私一人だったので、私は運転手の好意に感謝しつつ、事故の処理に忙しかったが、団長がたぶん脳震盪を起こしているのだろうと思い、見送りに来た後続の車で、市内に戻ることにした。

この間、数分間しか経っていなかったが、待っていた運転手は「10ドルくれ」と言った。「5ドルだ」と私。しかし運転手は「10ドルだ」と譲らない。しかも「時は金なりだ」と言うではないか。私は心の中で「米国人は本当に計算高いなあ」と思った。当時中国では、「時は金なり」という格言は、まだあまり流行ってはいなかった。

国内外の時事問題を熟知し、それを詳しく論評できるタクシーの運転手といえば、「北京の運ちゃん」の右に出るものはなく、中国人でも外国人でも、乗った人は誰もが感心する。それは彼らが平素から新聞を読み、ラジオを聴き、乗客と好んで会話するのを習慣にしていることと大いに関係があるだろう。

ある都市に初めて来たばかりの人が、もっとも多く会話するのはタクシーの運転手である。だから彼らは「都市のスポークスマン」と呼べるのではないだろうか。

趙啓正

 1963年、中国科学技術大学核物理学科卒業。高級工程師などを経て1984年から中国共産党上海市委常務委員、副市長などを歴任。

 1998年から国務院新聞辦公室・党中央対外宣伝辦公室主任。

 2005年より全国政協外事委主任、中国人民大学新聞学院院長。

 

人民中国インターネット版 2009年11月16日

 

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