大切にしたい中国とのご縁
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福田 亜紀 1972年、京都府生まれ。生後まもなくフランスに渡り、7歳まで過ごす。帰国後、大学まで愛知で育ち、神戸の大学院を修了後、京都で働く。2003年に中部大学大学院国際関係学研究科博士後期課程に入り、2007年に修了。2008年に中部大学の派遣講師として、外交学院に赴任。 |
癒されるカルチャーショック
中国への赴任が決まった時に、私の母は「やっぱりこの名前を付けてよかった」と言った。
母が私を身ごもった時に、両親はフランスにいたので、アジア人であることを強く意識したという。それで、私の名前を決める際に、亜細亜(アジア)の亜を用いることにした。そのため、両親が私に名づけてくれた名前は“亜紀(あき)”となった。この名前には、将来、アジアに貢献できるような仕事をしてほしいという願いを込めたと母は言う。
私自身は親の名づけを特に意識はしていなかったのだが、高校生の時に「日本語教師になりたい」という夢を持ち、三十代になってその夢は実現した。
北京に赴任が決まる前まで、私にとって中国は「近くて遠い」隣国であった。一年半、北京で過ごしてみて、「若い時に中国の魅力に何故もっと早く気づかなかったのだろう」と悔やんでいる。今では、北京は私にとって心が落ち着く場所となりつつある。
私は幼少期フランスで育ち、7歳で日本に帰国した時にひどいカルチャーショックを受けた。日本が母国であるのに異国のように感じ、それから「日本とは」「日本人とは」という問いが私の中に生まれた。
カルチャーショック体験の痛手が未だに胸の奥にわずかながら残っていたのだが、この大らかな空気が漂う中国で暮すことにより、ゆっくりと自分自身を振り返ることができた。日本語教師という職業を選び、日本語を研究する道を選択したのは、あのカルチャーショック体験があったからだと思う。そしていま、この年齢で北京という土地に来たことも、自分自身にとって意味があることだと感じている。
運転手さんとの不思議な出会い
先日、心温まる出来事があった。大学前から乗ったタクシーの運転手さんから親しげに話しかけられた。中国語がまだまだの私は何を言っているのかよくわからなかった。でも、「冬」「帽子」という言葉を聞き取れた。一年近く前に帽子をどこかで失くしたことを思い出した。運転手さんが持っているのか、それは自分のものなのか、気になったが、私の下手な中国語では通じなかった。その日は急いでいたので、運転手さんとの不思議な出会いを感じながら、そのままタクシーを降りた。
数日後、中国人の先生方と再び大学前からタクシーに乗った。すると、先日の運転手さんではないか。バックミラー越しに笑いかけてくれた。ここぞとばかりに、中国人の先生方に先日の話をして、通訳をお願いした。運転手さんは私かどうかはっきり覚えてないけど、冬に乗せたお客が毛糸の帽子を忘れていったと言っているという。もしかしたら、トランクにあるかもしれないから、後で見てみようということになった。
到着地に着いて、トランクを開けてみると、そこにはビニール袋にきちんと包まれた私の毛糸の帽子があった。運転手さんの良心に心を打たれた。そして運転手さんとの出会いにご縁を感じた。
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「縁に連るれば唐の物を食う」という日本の古い諺があるが、私はさまざまな縁で中国とつながっていて、今、北京にいる。この中国との縁を、これからも大切に育てていきたい。
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人民中国インターネット版 2010年1月5日