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野心満々の袁世凱

 

袁が臨時大総統の座についたことで、彼の野心は白日の下にさらされた。孫文は大総統の地位を辞する際に、袁世凱の専制独裁を警戒して、中国をブルジョア民主政治の軌道に載せるために、新大総統に対して、南京に移り、「中華民国臨時約法」を遵守する、などの条件を提起した。しかし、袁はあえて北方情勢をかく乱させ、故意に南下が不可能な状況をつくりだした。憲法的な性格を持つ「約法」に対して、袁は遵守しつつ、将来的には修正しなければならないと公言していた。革命党はやむを得ず、妥協を繰り返した。3月6日、南京臨時参議院は袁の北京での大総統就任を承認し、4月2日、臨時政府は北京に移転した。

孫文の辞任と臨時政府の北京移転は革命が挫折したことを意味していた。ブルジョア革命派は政権から離脱した後、一片の「約法」を頼りに民主実現を目論んだが、これは幼稚な幻想に過ぎなかった。

袁は革命派との対局で再三勝利を収め、独裁への道を歩み続けた。1912年6月、彼は革命派が半数を占めていた内閣を解散した。当時、孫文は中国の政治に悲観、失望し、袁に局面の安定のみを希望し、自らは実業に従事しようとしていた。革命派のモチベーションが下がっていた時、宋教仁が勇敢に立ち上がり、民主制の確立、民主的な選挙による国会設立、憲法制定を積極的に主張し、8月に同盟会を基礎に国民党を結成した。

1912年12月から翌年2月にかけて、宋が率いる国民党は第一回国会選挙で参議院、衆議院で圧倒的多数の議席を掌中にした。宋は合法的な政治闘争によって政権を掌握しようと構想していたが、袁が握っていた武力を軽視していた。1カ月後、北京に行き組閣しようとしていた宋は上海駅で暴漢に狙撃され、重症を負い、世を去った。

宋の死は全国を騒然とさせ、孫文の目を覚まさせ、袁世凱討伐を主張した。1913年7月、江西都督・李烈鈞が討袁を連絡してきた。南京、上海、安徽、湖南、広東、福建、重慶などの省、区が前後して独立し、国民党は民主共和の擁護を掲げる「二次革命」を発動した。しかし残念なことに、国民党が統一行動を取れなかったために、それぞれの地方で武装し、それぞれ戦わざるを得なかった。2カ月足らずで、南方各省の国民党軍は全部、袁に打倒され、「二次革命」は失敗に帰した。孫文、黄興らは再び海外逃亡に追い込まれた。

「二次革命」は辛亥革命の最後の一戦だった。この失敗は、辛亥革命が清朝を転覆させ、帝制に終止符を打つ偉大な勝利を収め、徹底的な民主革命の実現に導く道を切り開いたものの、反帝反封建の任務を全うすることは出来なかったことを意味していた。中国は北洋軍閥の暗黒統治の時代に突入した。

 

人民中国インターネット版 2011年10月10日

 

 

 
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