1900年、義和団事件と8カ国連合軍の進駐によって、清朝政府は深刻な打撃を受けた。義和団事件の賠償金(庚子賠償金)はさまざまな社会矛盾をさらに激化させ、革命党は各地で頻繁に武装蜂起を決行した。清朝政府は倒壊寸前の統治を支えるために、「予備立憲」詔書を発布し、各省に諮議局を設置し、立憲君主制を準備するポーズを示した。しかし1911年5月、清朝政府が発表した閣僚名簿の過半数が皇族の側近、臣下だったことから、元来清朝擁護の立場だった立憲派の大多数も清朝政府の誠意を疑い、革命に同情し、革命に傾く人がますます多くなった。まさにこうした時、清朝政府は広東、四川、湖北、湖南など各地に民間資本で敷設された鉄道の国有化を熟慮もせずに決定、ついに、辛亥革命の導火線に点火してしまった。
新軍にも革命思想
1901年、清朝政府は新式陸軍の編成を決定した。北洋新軍六鎮は朝廷直属だったが、その他の新軍は各省によって編成・訓練された。そのうち、湖北、湖南などが留学生を大量に新軍将校として起用したが、彼らの多くは、革命に同情的な傾向が強かった。革命党は彼らを足がかりに新軍内でひそかに革命思想を浸透させ、兵士たちに革命宣伝を行った。
1911年9月24日、湖北新軍の青年軍人は文学社を組織し、革命団体・共進会とともに、会議を開催し、蜂起総指揮部を設立した。
会議で、文学社社長の蒋翊武を総指揮に、共進会責任者の孫武を参謀長に選出した。蜂起総指揮部は武昌小朝街85号の文学社機関に設置された。蜂起決行はもともと1911年10月6日と決めていた。この日は旧暦8月15日の中秋節だった。その後、準備不足で、10月16日に延期した。
しかし10月9日、孫武は漢口のロシア租界宝善里14号で密かに爆弾を製造していた際に爆発事故が発生、火傷を負った。ロシアの巡査が捜査に乗り出した。負傷した孫武らは逃走したが、蜂起関連の文書や旗などが押収された。湖広(主に湖南、湖北両省を指す)総督の瑞澄は蜂起の計画を知ると、全市に警戒令を発し、名簿に基づいて革命党関係者を逮捕させた。蜂起指導者のある者は逮捕、殺害され、ある者は逃亡し、行方不明になった。
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