武力、陰謀と外国勢力の支持によって、袁は臨時大総統から正式の大総統となり、さらに終身大総統になった。ところが、彼は国会にけん制される大総統では満足せず、大権力を独占し、独断専行が可能な皇帝になろうと企んだ。
1915年春、袁は米国、英国、日本などの外国勢力と結託し、帝制復活の支持を取り付けるために、帝国主義勢力に、国家主権を売ることもいとわなかった。5月、中国を日本の植民地に変える「対華21カ条要求」に屈した。8月、袁の憲法顧問、米国人F・J・グッドナウは『共和と君主論』を発表し、その中で、中国人は知的レベルが極めて低くて、政治を研究する能力に欠けるので、中国人には君主制しかふさわしくない、と断じた。その後、袁におもねる一味が結成した「全国請願連合会」は、国体の改変を要求した。12月12日、袁は帝位就任を受諾することを宣言し、中華民国を「中華帝国」と改め、翌1916年を洪憲元年と定めた。
しかし、願いがかなって有頂点になっていた袁は、辛亥革命以降、民主共和の思想が人々の心に深く染み込んでいることを軽視した。帝制に対する反対の声が全国に広がるにつれ、12月25日、南方軍閥の唐継堯、蔡鍔、李烈鈞などが雲南省で独立を宣言し、同時に袁討伐の護国戦争が勃発した。これにより、袁の北洋軍閥は瓦解し、列強諸国も袁支持を撤回した。人々に背かれ、内政外交ともに行き詰まるに至って、1916年3月22日、袁氏はついに帝制取り下げを宣言した。同年6月6日、在位わずかに83日の袁は失意の中で病没した。
袁の死後、中華民国の政権は北洋軍閥の頭目の手に落ち、黎元洪、段琪瑞、馮国璋、徐世昌らが相次いで政権を握り、軍閥間で紛争が繰り返され、『臨時約法』は踏みにじられた。混迷する新政府の動きを見て、軍閥張勲は1917年6月、清朝廃帝の愛新覚羅・溥儀を復辟させたが、わずか12日間で挫折するというドタバタ劇を演じた。
1917年9月、孫文は広西派、雲南派の軍閥と連合し、段琪瑞討伐の兵を起こし、「臨時約法」擁護の「護法戦争」を発動した。しかし、孫文が依拠した軍閥勢力は本心からの「護法」ではなく、自らの勢力拡大のために、孫文排斥を目指してあの手この手を弄していた。翌年5月、孫文は大元帥辞職に追い込まれ、「護法運動」もついに失敗に終わった。軍閥間の矛盾を利用し中国を救おうとしたブルジョア階級の手法は当時の中国では通用しないことが証明された。
人民中国インターネット版 2011年10月10日
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