ちょうど中国が暗黒社会に陥りつつある時に、国際的に二つの大きな出来事が起こり、新たな希望がもたらされた。
その一つは、1917年10月に起きたロシア十月革命の勝利で、マルクス・レーニン主義が中国に伝わってきた。李大釗、陳独秀をはじめとする中国の先進的な知識人たちは、ロシア革命に鼓舞され、西洋文化の学習からマルクス・レーニン主義の研究と宣伝へ方向を転じた。1918年、李は中国新文化運動の中心的な役割を担った雑誌『新青年』に「ボルシェビキ主義の勝利」という論文を発表し、「将来の地球を展望してみると、必ず赤旗の世界だ」と指摘した。そして、孫文もソビエト政府に「中国とロシアの革命党が一致団結して、共闘することを希望する」という電報を打った。1949年6月、毛沢東は『人民民主主義独裁について』を執筆した際に、「中国人はマルクス・レーニン主義という世界のどこにも適用できる普遍的な真理をさがしあて、それによって中国の姿形は変わり始めた」と書いた。
もう一つは、1919年4月にフランスで開かれた第一次世界大戦のパリ講和会議で、米、英、仏などの列強諸国が、敗戦国ドイツが山東省で獲得した権益を全て日本に譲り渡したことだ。戦勝国として、山東半島の主権返還を求めようとした中国は屈辱感をいっそう深めた。5月4日、北京の十数大学の学生3000人余が「国外では国権を争い、国内では国賊を懲らしめよう」「山東を取り戻せ」などのスローガンを声高らかに叫びながら、デモ行進し、民衆に帝国主義の陰謀と北洋政府の腐敗を訴えた。この「五四運動」は瞬く間に全国22省、150以上の都市に拡大し、各地で学生、商店、労働者のストが頻発した。この愛国運動の中で、李大釗、陳独秀、毛沢東、周恩来など初歩的な共産主義思想を持つ知識人が実践的な指導の役割を果たしたほか、労働者階級をはじめとする中国プロレタリア階級が反帝国主義・反封建主義に対する徹底性と非妥協性をも示した。
「五四運動」後、共産主義者グループが中国各地で誕生し、マルクス・レーニン主義が国民の中で広まっていた。1921年7月、中国共産党が上海で成立した。中国共産党の指導下で、中国人民は28年間の血みどろの戦いを行い、中華人民共和国を築き上げ、真の民主共和を実現した。
人民中国インターネット版 2011年10月10日
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