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両国関係振り返る素材に

 

賈秋雅=文・写真

孫文記念館の安井三吉館長

1941年生まれ。東京大学で中国近現代史を学び、1972年から神戸大学で講師、助教授、教授などを歴任。現在は神戸大学名誉教授、孫文記念館館長、神戸華僑歴史博物館研究室長、孫文研究会理事など兼任。専門は中国近現代史、日中関係史。

神戸の明石海峡大橋の脇にある兵庫県立舞子公園の中に、異国情緒あふれる八角三層の楼閣が建てられている。「移情閣」という名のこの建物は、日本の重要文化財として孫文を顕彰する日本で唯一の建物である。「孫文と日本」を研究し続けている孫文記念館の安井三吉館長に、辛亥革命と日本について語ってもらった。(敬称略)

――千人を超すリストの中には、有名人だけではなく、多くの庶民がいます。なぜそれほど多くの日本人が中国の革命を支えたのですか

安井 千人というのは、主には孫文が最初に日本に到着した1895年から、最後に来た1924年までの30年の間に、孫文をはじめとする中国の革命家と関係した日本の人たちのことです。もちろん、この千人の中の多くは何らかの形で孫文たちの革命運動を支援しました。なぜ彼らはそうしたか、大きく言うと、二つあると思います。

一つは孫文の革命思想に共鳴したことです。当時の日本と中国は共通する境遇にありました。西洋列強に圧迫され、開国させられ、不平等条約を結ばせられました。また、西洋列強に対抗するために西洋の文化を吸収しなければならないという点でも日本と中国は共通していました。

ですから孫文の革命思想を理解し、自分たちの生き方を孫文と重ね合わせる日本人が多くいました。宮崎滔天や梅屋庄吉がそうでした。彼らは中国の変革を助けたいと考え、孫文をはじめとする中国の革命家たちに共鳴したのです。こうした人々は多かったと思います。

もう一つは日本の「国益」のためという、冷めた考えの人たちです。はっきりそれを表明した代表的人物は、内田良平でした。内田のように日本の「国益」のために孫文の活動にかかわった日本人も少なくはなかったと思います。

そして、千人の中には無名の一般人も多くいました。孫文の日本滞在は、そのほとんどが亡命生活でした。亡命して来た外国の人を助けなければならないという純粋な思いを持つ人も少なくなかったです。また、直接孫文に会って、彼の革命思想と個人的魅力に引き付けられた人もいたでしょう。

さまざまな立場で

――中国では、辛亥革命は中華民族の偉大なる復興のスタートと評価されていますが、日本では、どのように評価されていますか

安井 二つあると思います。中国自体に対する評価と日中関係に対する評価の両方の面があると思います。

中国自体については中国でいわれているように、2000年の皇帝専制制度を倒してアジア最初の共和国が成立したと、私たちも評価しています。

日中関係の面では、日本や日本人が非常に深くかかわった中国の歴史事件だったと思います。経済の面で支援した人もいたし、革命軍に参加した人もいましたし、清朝側に加わった人もいました。たくさんの日本人がさまざまな立場から辛亥革命とかかわりました。かつて日本人が、あれほど広く、深く中国の変革に参加したことはなかったと思います。

――今の中日関係は、百年前の辛亥革命時期の中日関係から何か学ぶことができますか

安井 孫文と日本の関係は、日中間の深い縁として、日中両国の関係を振り返るにはすばらしい素材になると思います。単純に革命を支援したという面だけではなく、中国における日本の「国益」の維持、拡大という複雑な側面を持ちながら、辛亥革命は、日中両国がお互いにどのように付き合うべきか、改めて考え直すよい機会となる大きな歴史事件だと思います。

移情閣

 

人民中国インターネット版 2011年10月10日

 

 

 
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