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武昌蜂起が共和革命に点火

 

準備不足だが決行

新軍工程第8営の分隊長熊秉坤らは逮捕事件を聞くと、予定を早めて蜂起することを決定した。翌10日の夜、各部隊に、銃声を合図とし、中隊長の呉兆麟を蜂起軍臨時総指揮に、熊秉坤を参謀長にすることを連絡した。

当夜、工程第8営の兵士程定国ともう一人の兵士金兆龍は、武装し、蜂起の準備を終えたが、依然として朝廷に忠誠を誓っていた下級将校の陶啓勝によって歩哨中に発見された。陶が「反逆する気か」と詰問すると、金が殴りかかり、程も銃を発射した。負傷した陶は必死で逃げようとしたが、騒ぎを聞きつけ駆けつけた工程営大隊長に革命党と誤解され射殺された。

各部隊の兵士はこの銃声を聞き、蜂起の合図だと勘違いし、一斉に行動を開始、直ちに楚望台の兵器庫を占領し、歩兵銃数万丁、大砲数十門と銃弾数十万発を鹵獲した。続いて、武昌城外に駐屯していた輜重隊(軍需品輸送部隊)、砲兵営など革命団体の影響を大いに受けていた新軍も次から次へと呼応して決起し、入城した。蜂起に参加した人数は3000人を超えた。

翌日の夜明け前、蜂起部隊は総督衙門(役所)を占拠した。湖広総督の瑞澄は建物の裏の壁を打ち破り、船で長江から逃亡した。武昌は清朝の支配を脱した。これが辛亥革命の武昌蜂起だった。

 

 

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