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孫文の故郷はいま 中山市の変貌ぶりを見る

 

陸彩栄=文 喬振祺=写真

中山市は広東省広州市の東南約90キロ、珠江の東岸にある。元の名は「香山」といったが、それは孫文(孫中山)の故郷にちなんで1925年に名づけられたものだ。その年の3月、孫中山は北京で病没し、この偉人を記念して「香山」から「中山」に名を改めた。

今日の中山は、美しく、住み心地のよい都市であり、暖かい南方の小さな町である。国連の人間居住環境賞を受賞し、清潔、優美で道幅は広く、緑いっぱいの都市である。市内の中心部には、立体交差橋は一つもない。立体交通は街の下を通るトンネル式を採用している。だから市内の職員や労働者が歩いて通勤する時間は平均で18分に過ぎない。

中秋の季節、中山市では辛亥革命百年を記念する活動が行われた。これを機会に、この偉人の故郷である中山の村や学校、工場、地域を見て回り、偉人の故郷の新たな変貌やその中に脈々と息づく偉人の精神の継承を探った。

緑豊かな孫文の旧居

広東省中山市翠亨村にある孫中山旧居紀念館(CFP)
孫中山は1866年11月12日に現在の中山市南湖鎮翠亨村で生まれた。彼はここで幼年時代を過ごしたが、ここで封建的な中国のさまざまな束縛を、身をもって感じた。13歳でこの小さな山村を離れ、ここから彼の波乱万丈の人生の旅路が始まった。

翠亨村の人々は孫中山を誇りとし、中山の精神を継承し、発揚している。そしてこの偉人の故郷を保護し、建設する中で絶えず発展の道を探し求めてきた。

この山村は、緑の木々が村落に融け合い、新しい家が道端につくられている。村は清潔で美しく、画意や詩情が山村に満ち溢れている。孫中山の旧居を中心にして、この山村は、心地よい花園のように計画され、建設されている。

翠亨村党支部の張錦華書記によると、孫中山が故郷にいたときは、村には60戸足らずの人家しかなく、典型的な南方の小さな山村であった。しかし現在は、全村で3千人以上の村民が住み、1人当たりの年収は1万5000元以上である。さらにここ出身の香港・マカオ(澳門)の同胞や海外華僑は2000人以上。彼らは世界の各地に散らばっている。

村には診療室や文化活動ステーション、幼稚園、小学校がある。小学校には孫中山が自ら書いた学校の名前が掲げられている。数年前から村では、村民を豊かにするためにいくつかの村営工業を起こした。現在、村の外からこの村に来て働いてくる人は2万人を超す。

張書記はこう言う。「発展の中で、翠亨の人々は、翠亨の価値はいくらかの経済の発展や多少の収入の増加にはないことを悟った。一代の偉人が成長した環境を保護し、人々がその墓前に弔い、祭祀を執り行う。それこそが翠亨村の最大の経済であり、最も重要な使命と責任である」

中山市内でも、専門家や学者を組織して、翠亨村の発展について科学的論証を行ってきた。そして大いに観光業を発展させ、「国際的な観光の小さな鎮」を建設することが翠亨村の最新の目標となった。

翠亨の人々は積極的に開拓して、緑の木々と青々とした山の中に「画家の村」を建設し、芸術家のために優良な創作の基地を提供した。東北部からやって来て、ここで十数年暮らしている1人の画家は、すでに多くの作品を制作し、今では自ら進んで「画家村」の村長になり、文化人のために働いている。村の空き地には、村が投資して新しい運動場が建設され、そこにはバスケットコートやバドミントンコート、卓球場などがある。先祖の霊を祭る古い祠堂も、文化活動ステーションに改造された。滴るような緑の下で、7、8人のお年寄りが休憩し、おしゃべりをしている光景が見られる。

この村のすべてのお年寄りは、女性は55歳、男性は60歳から1人毎月700元の養老金と7.5キロのコメが村から支給され、衣食に不自由はない。「村に里帰りしてくる香港・マカオの同胞たちがうらやましがるほどだ」と張書記は言っている。

全面的発達を目指す教育

翠亨村にある農家の書斎

孫中山旧居の傍らに「中山紀念中学」がある。そこは花園のように美しい学校で、文化的雰囲気の濃厚な校風は人々の共感を呼び起こす。

中山紀念中学は1934年に創設された。孫中山の長男の孫科が父の遺志である「建設を謀り、人材を培い、富強を根本と為す」を受け継いで興した。現地の人々は親しげにこの中学を「紀中」と呼ぶ。校長の賀優琳さんは、江西省南昌の中学校長だったが、16年前に招かれてここに来た。

それ以来、彼はここを去ろうと思ったことはない。校長に連れられて起伏のある校内を電気自動車に乗って参観すると、緑の木々や美しい花々が校庭は飾られ、赤レンガの校舎がその間に点々と建ち並んでいた。体育場やバレーコート、バスケットコート、テニスコート、花壇、小さな池、ミニ公園もある。

広々とした場所に置かれた石の上に、「祖国高于一切 才華奉献人類」の文字が刻み込まれていた。賀校長によるとこれは「祖国は何ものよりも高く、才華は人類に貢献する」という意味で、「紀中」の校訓であり、孫中山の「天下為公」(天下を公と為す)という理想と信念を表しているという。

創設以来77年。「紀中」は、当初の児童数十人の小学校から90クラスの「高中」(日本の高校)と24クラスの「初中」(中学)を擁する学校に発展した。在校生は6200人以上、教職員は2000人以上で、広東省の「重点中学」になっている。

学校の会議室には、孫中山自らが書いた「天下為公」の木版画と宋慶齢の書いた「中山紀念学校」の扁額が掛けられている。賀校長は、「紀中」が世の中の変化にもかかわらず、一貫して「中山精神」で教育を行い、生徒の全面的な発展の育成に努めてきたことをこう説明した。

「紀中の教育は、知識の学習を重視するばかりではなく、それよりも生徒の素質や人格の全面的な育成を重視し、生き生きとしてはつらつとした校風を大いに提唱してきました。能力や性格に応じて異なる教育を施し、勉強を楽しむ方針を堅持してきたのです。学校では『毎日一時間鍛練すれば、一生幸せで楽しく暮らせる』と提唱しています。それぞれの生徒の興味や好みに基づいて、1、2種類の運動が好きになるよう重点を置き、面白い体育の教育を進めてきました。駆け足したり、球を打ったり、オリエンテーリングやストリートダンスをしたりするのです。生気に満ち溢れていると言うべきでしょう」

だから毎日、授業の時間は、校内は静かで、学習をいささかもおろそかにしていない情景だが、午後4時以後は「紀中」は喜びに沸きかえり、鍛練やパフォーマンスが行われ、それぞれの長所を伸ばしている。

「紀中」では、生徒たちが順番に、競争で学級委員などの役職を務めている。その目的は、生徒の組織・協調の力を全面的に鍛練するところにある。学校は「毎週一公演」活動を展開している。各学年のクラスごとに毎週金曜日、順番に文芸プログラムを公演する。辛亥革命100年を記念するために、生徒たちは二つのプログラムを編成し、それを中山市でも公演して市民から大いに歓迎された。

「紀中教室」は学校が生徒の視野を広げるための重要な拠点となっている。毎月一回、国内外の知名人を招いて、天文、地理、自然、社会からアカデミズム、マネージメントなど多種多様な事柄を講演してもらい、生徒たちはそれを喜んで堪能している。

また賀校長はこう説明している。

「紀中の卒業生は活発、明朗で、組織・協調能力に秀で、全体的な素質が高く、各地の高等教育機関で歓迎されています。紀中のオリエンテーリング隊は常に国家青年隊を代表し、各種の試合に参加しています。こんな小さな学校から、100人以上の国家一級運動員と200人を超す国家二級運動員が育成・輩出されました。その中には「健将級(運動選手の最高級の称号)」運動員も数人います。当然、紀中の文化教育水準も非常に高く、紀中の生徒は全国の『数学・物理・化学』競技や『歴史・地理・生物』競技、全国青少年科技発明競技の中で毎年、賞を獲得しています」

豊かさをもたらした「一鎮一品」

孫中山が提唱した三民主義の中で、「民生」は非常に重要な内容である。生産を発展させる中でいかにして民生への配慮を実現するのか。このことを中山の人々は、経済を発展させる中で考えた。

中山には20以上の鎮がある。1970~80年代に、改革開放の大きな流れが沸き起こった。中山の人々も気持ちが高ぶり、どんなプロジェクトでも、できると思えばすぐに実行した。金を稼げるものなら何でも発展させた。その結果、金属や機械、化学工業、紡績などがどっと立ち上がったが、資源は浪費され、効率は低く、程度の差はあれ環境も破壊された。

岐江の夜景

孫中山の『建国方略』の中で提起された科学的産業配置や経済の統一的な発展に啓発され、中山の人々は思考を繰り返し、そして「一鎮一品」の戦略的政策を打ち出した。これは一つの鎮の中で力を集中し、一、二の主導的産業を発展させ、そこから全市の合理的に配置された産業構造を形成し、実践するというものである。

沙渓鎮では、1930年代に紡績業の発展が始まり、次第に規模が大きくなった。改革開放後、紡績業を主として委託加工貿易を発展させた。そして沙渓の人々は、服装の世界の中から次第にカジュアルウエアを自分たちの目標に定め、だんだんとその分野を切り開いていった。

2000年に沙渓のカジュアルウエアは重大な転換点を迎えた。この年、中国紡績協会と中山市政府が共同で主催する中国カジュアルウエア博覧会が沙渓で挙行された。そして全国10大カジュアルウエアブランドで、沙渓は七位を獲得したのである。「これはわれわれ沙渓の経済発展の中の一里塚であった」と沙渓鎮人民政府の経済貿易弁公室の彭燦森主任は言う。

カジュアルウエアはすでに沙渓の基幹産業になっている。この鎮の経済の80%は服装業であり、昨年の全鎮の工業総生産は222億元、その中で服装業は180億元を占めている。鎮からの服装輸出は2億8000万ドルに達する。

沙渓の服装産業もまた、試練を経てきた。特に20世紀末のアジア通貨危機の嵐と依然変化するグローバルな金融危機というこの二つの危機は、沙渓鎮の服装産業の輸出を下降させ、企業の生産効率を低下させた。小さな企業は、創業も速いが倒産も速い。毎年全鎮で300~400の小企業が倒産し、また新たに300~400の企業が創業されている。それで全体はバランスが取れている。

さらに重要なのは、危機の試練を経て、「強者がさらに強くなる」という趨勢が出現したことである。危機になっても大企業は影響が少ないばかりではなく、生産をさらに集中し、注文は少なくならず、逆に多くなり、信用はさらに強まるのだ。現在の沙渓はすでに名もない小さな鎮から全国の有名なカジュアルウエアの産業基地に発展した。この鎮が擁する服装企業は2000社以上を数える。

しかし、彭主任は「沙渓の服装業は理想とは程遠い」と言う。「星のようにちっぽけなものが多く、月のように大きなものは少ない」というのだ。全鎮で、年商2000万元以上の企業は156社で、民営企業が主である。しかし年産1億元以上は20社、5億元以上は五社を超えない。「われわれには大きな発展の余地がまだある」と彭主任は述べた。

彭主任によると、次の一歩は、全鎮が服装産業のグレードアップとモデルチェンジを強化し、先進技術を運用して、すでに優位を占めている産業をさらに向上させることに重点を置くことである。それによってブランド品の比率を大幅に高め、付加価値を増加させる。

このために鎮の中で二つの重点建設が始まった。一つは全鎮のエレクトロニクス・コマーシャル・センターを設立し、エレクトロニクス・コマースの発展に力を入れ、管理の水準を高めること。もう一つは「クリエーティブ産業園」の建設である。これは、中国紡績学院や広州美術学院などの高等教育機関と合作し、沙渓に中山市カジュアルウエア研究開発センターを設立し、国内外の有名なデザイナーを導入してクリエーティブ活動に参加してもらい、特殊な性能を持つ生地を開発し、さらに人体の機能にぴったりと合い、いっそう快適で、実用的なカジュアルウエアを設計するというものだ。

10月10日、中山市の市街区の新たな観光プロジェクトである岐江の夜の観光が正式に始まった。岐江の上は風が清らかである。さまざまなネオンの広告で飾られた遊覧船が行き交う。その光景は

偉人の故郷 夜遊を添える

美しい中山 錦繍を披く

長虹飛瀑 景観壮なり

水岸千灯 万影流る

と歌われている。

 

人民中国インターネット版 2012年1月20日

 

 

 
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