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陽明文化の起点―貴州

 

明代の著名な思想家王陽明(1472年~1528年)は貴州ではある時期非常に重んじられた。貴陽や龍場(現在の修文)には多くの王陽明の遺跡がある。修文陽明洞の玩易窩、陽明小洞天、君子亭、賓陽堂、龍岡書院、三人墳。これらは王陽明が当時活動していた名所旧跡である。人々は彼の名前と学説によって陽明書院と正学書院を建て、修文には王文成公祠、貴陽の扶風山に陽明祠を建て、最近また広々とした陽明園を作った。数百年の間、墨客詩人が続々とここを訪ね、数多くの額や碑を残した。

王陽明は、浙江省余姚に生れたが、彼の学説は貴州で誕生した。

日本で出版された陽明文化に関する書籍

龍場で復活した陽明

「龍場悟堂」は、王陽明学説の起点である。王陽明は明朝の正徳三(1508)年、貴州に左遷され、龍場に3年間住んだ。ここで彼は九死に一生を得て、龍場の人々の無私の援助によって新たに立ち上がり、生存と闘争の勇気を持ったのである。質朴で飾り気のない気風が、彼に「良知」の貴さを体験させた。彼は玩易窩の中で天、地、人が渾然一体となるのを悟り、「天理」と「良心」を直接結びつけた。ここで「心即理」と「知行合一」の理論を確立し、「致良知」学説が芽生えたのである。それゆえ内外の学者たちは、龍場を「陽明聖地」とみなしているのである。

王陽明学説の伝播は貴陽から始まったのである。それは主に書院での講義を通じて広まった。―貴州龍岡書院、江西濂渓書院、浙江稽山書院といった王陽明学説伝播ルートが形成されたのである。王陽明学説は、貴州から全国に広まり、遠くは朝鮮、日本などまで伝わった。

中国の古代哲学が宋明理学に発展し、一つの頂点に達した。漢唐の訓詁学に比べて理論や思弁の面で一層高い水準に達したといってよく、中国の儒学が最後のピークに達したとされる。

当代の有名な散文家余秋雨は「中国の歴史を集大成式に哲学者のリストを最低限度まで縮小したとしても、王陽明の名は外れることはないだろう。」と書いている。陽明文化は、中国文化の珍貴な宝である。

朱子学とは何か

儒学の歴史は、隋唐以前は経書の音読や訓詁を重視したものであったが、宋代の学者から見れば孔子などの聖人の本旨を正しく理解していないと映り、改めて理解する試みが必要であるとして、孔子の思想的側面すなわち聖人の心と解釈者の心を明らかにすることに力を注いだ。その代表が朱子学と陽明学である。朱子学は『大学』『中庸』『論語』『孟子』の四書を重視した。四書は比較的短文で、勝手に解釈できる内容であったため朱熹はこれを利用したとされる。朱子学は孟子の『性善説』を取り出し、極端に尊崇したため、「性」や「善」の内容を巡ってさまざまな議論が展開した。

権力と結びついた朱子学

朱子学の普及に伴い、元代中期には科挙では四書と、五経のうちの一書について朱子学的解釈を主とする出題がされ、明清代はもっぱら朱子学的解釈によると規定されるなど、為政者との結びつきが強まった。明代には宋元の朱子学的四書説を集成した『四書大全』が編纂頒布され、科挙の解答基準として権威を保つようになった。

元明代の思想学説は四書に基づくことが多く、王陽明の学説も四書の新解釈から出ている。明代中期以降には陽明学や仏教思想を導入した四書の新解釈が現れ、章句・集註や大全の権威は低下し、科挙の答案はこれによらないこともあった。清代にはふたたび五経を重んずる学風が現れ、四書の地位は低下したが、科挙ではやはり四書章句・集註が重視された。

わが国では江戸時代に朱子学的注釈から明代の注釈に至るまでよく読まれ、和刻本も多量に出版されている。

陽明学とは何か

陽明学とは、明代に王陽明が起こした孟子の性善説に連なる儒教の一派である。王陽明の思想は、以下のことばに凝縮されている。

一、 心即理―陽明学の倫理学的側面を表す。陸象山が朱子の「性即理」の反措定として唱えた概念。王陽明は「性」「情」を合わせた心そのものが「理」に他ならないという立場をとる。

二、 致良知―陽明学の方法論的側面を表すことば。「良知」とは貴賤に関わらず万人が心の内に持つ先天的な道徳知であり、人間の生命力の根源でもある。「良知」に従う限りその行動は善である。

三、 知行合一―「知」は認識を「行」は実践を指す。認識と実践は不可分であるとする。

四、 万物一体の仁と良知の結合―人も含めて万物は根源が同じであるとし、自他一体とみなす思想。他者の苦しみは自らの苦しみであるとし、社会救済の根拠を見出した。

五、 事上磨錬―自己修養のあり方。日常の生活、仕事の中で良知を磨く努力をしなければならない、と説いた。

明朝の政治や思想に大きな影響を与えてきた陽明学は、明朝とともに衰退し、清朝では考証学に、学問の主役の座を奪われることになる。

日本での陽明学と明治維新

体制を維持する治世者にとって、普遍的な秩序志向の朱子学は好都合であった。ところが陽明学は、王陽明の意図に反して、反体制的な理論が生れたため、反体制派とくに尊王攘夷思想に傾き、明治維新の理論的根拠ともなって吉田松陰をはじめ、高杉晋作や西郷隆盛、河井継之助、佐久間象山などが大いに影響を受けている。

明治の財界の立役者、岩崎弥太郎や渋沢栄一、、東郷平八郎、幸徳秋水などにも影響を与えている。

 

 

 

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