「楊式」「武式」の里
広府古城の東門に残る瓮城 |
広府鎮は、かつては広平府城と呼ばれていた。隋(581~618年)の末期に建設が始まり、元と明代に増築・補修されて一定の規模になった。今でも城壁や堀がよく保存されている明・清代の古城のひとつである。
古城はくぼ地の中央に位置する。周辺には湿地が広がり、葦が生い茂る。水鳥も数多く生息している。くぼ地の底の平均海抜は4一メートル、古城の東2キロの距離にある滏陽河の川底よりも2メートル低い。
楊露禅の旧居 |
城壁の上を歩くと、城内にある黒い瓦の民家や周辺の農村の風景が望める。湿地の葦のなかを小舟で行き交うと、いにしえの人々がなぜここを「北国の小江南」と称えたかが実感できる。
古城の東の東橋村を横切る滏陽河には、「弘済橋」という名の橋がかかっている。この橋は河北省趙県にある現存する中国最古の石橋、趙州橋(安済橋)と同時期に建設されたと言われている。現在の弘済橋は明の万暦年間(1573~1620年)に修復されたもので、その形は趙州橋とよく似ている。
楊式太極拳
楊式太極拳の創始者、楊露禅(1799~1872年)は広府鎮で生まれ育った。楊式は、数ある太極拳の流派のなかでもっとも広く普及している一派であり、昨年本誌で連載した「24式太極拳」はこの楊式を基に構成されたものだ。
広府古城のそばで楊式太極拳を練習する人たち |
やがて陳家溝の陳家の人が広府鎮へ行き、薬屋を開いた。彼らは毎日、自分たちで陳式太極拳を練習していた。
ある日、一人の男が薬屋にやって来てトラブルを起こし、店主を殴ろうとした。すると店主はひょいと手をひねっただけで、その男を遠くまで飛ばしてしまった。この様子を通りがかりの人が見ていた。それが楊露禅だった。
広府鎮南関出身の楊露禅は、農家の出身で家は貧しかったが、子どものころから武術が好きだった。薬屋の店主がひとひねりで男を投げ飛ばしている様子を見て、薬屋で賄い夫の仕事しながら店主から太極拳を学ぶようになった。楊露禅が真摯に学ぶ態度を見た店主は、陳家溝で太極拳を学べるようにと推薦してくれた。
楊露禅は1820年から3回にわたって陳家溝を訪ね、大家の陳長興に師事して18年間学んだ。その勤勉な様子に感動した陳長興は、誠心誠意をもって陳式太極拳を教えた。
楊露禅はその後、上京して講師となり、瑞王府でも太極拳を教えるようになった。そして、貴族の子息たちの体質やトレーニングの要求に応じて、「108式楊式太極拳」を創り出した。この太極拳は動きがおだやかで柔らかく、なめらかに円を描く。年齢、身分を問わず、どんな人でも練習することができる拳法であったため、北京で一世を風靡し、広く伝わった。
武式太極拳
武禹襄の旧居。庭には日本の学生が贈った桜の木がある |
弘済橋 |
楊露禅が陳家溝へ行って太極拳を学ぶことができたのは、武禹襄が旅費や家族の生活費を援助してくれたからだ。楊露禅は3回陳家溝へ行ったが、最初の2回は、広府鎮に戻ってから学んだことをすべて武禹襄に教えた。しかし3回目のときは、学んできた絶技を教えようとしなかった。
その様子を見た武禹襄は、自ら陳家溝へ行って陳長興に師事することを決意した。しかしすでに82歳の高齢だった陳長興は重病にかかり、まもなくこの世を去ってしまった。そこで温県趙堡鎮の陳清萍に師事した。
その後、清の乾隆年間(1736~1795年)に活躍した武術家、王宗岳が書いた拳譜を見て研究し、ついに太極の真髄を悟った。そして武式太極拳を確立した。
楊式太極拳は伸びやかで美しい動きを特徴とするが、武式太極拳は緻密精巧で、柔のなかに剛が含まれる動きを特徴とする。
広府鎮は楊式太極拳と武式太極拳の発祥地として、名声がますます高まった。現在は楊露禅と武禹襄の旧居が整備されて一般開放されており、太極拳の愛好者たちの憧れの地となっている。0808
人民中国インターネット版 2008年9月22日