遼・金王朝 千年の時をこえて 第23回
宋王朝が中国の南部で栄えていた頃、中国北方はモンゴル系の契丹人によって建てられた遼(907〜1125年)と東北部から興ったツングース系女真族の金(1115〜1234年)の支配するところとなっていた。これら両王朝の時代に、北京は初めて国都となったのである。 |
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開封と濮陽―遼・金・宋三国関係の要
歴史上数次に及ぶ黄河の大氾濫は、周囲の地形を一変させ、河南省開封一帯の歴史遺跡を探し出すことを困難にしているが、遼・宋そして金・宋の歴史上重要な場所は、今もこの辺りに残っている。
その一つ、濮陽は原始農業が生まれた、中国文明の発祥地として知られている。この地は、また、歴史の上で非常に興味深い、その解釈を巡って今だに議論百出の「澶淵の盟」が結ばれたところでもある。私は最近、開封の北200キロに位置する濮陽(澶淵)を訪れることが出来た。この訪問の目的は、1003~1004年に遼聖宗と蕭太后の率いる軍勢が、宋の都開封を攻め落そうと南下した際の遺跡の手懸りを探すことにあった。遼軍は黄河の北岸にある澶淵城の郊外に集結していた。この時、宋の宮廷内は主戦論と非戦論が真っ向から対立していたが、最後に宰相の寇準が宋の兵力は遼軍の五倍であり、開封攻撃を阻止することが可能であると皇帝を説得することに成功したと言われている。
皇帝は当初、黄河の浮橋を渡って進軍することを恐れていたが、寇準は皇帝の親征こそが、宋の軍勢の士気を鼓舞する唯一の方策であると主張した。澶淵に入城すると皇帝は人民の歓呼の声に迎えられ、契丹軍の陣営を見下ろす位置にある北門楼へ登って行った。
短時間の戦いの中で遼の将軍、蕭達蘭が矢に当たって戦死を遂げたことを以って、宋は勝利を宣言し、直ちに和平交渉が開始された。どちらが和議を申し入れたかは遼と宋のどちらの歴史書を見るかによるが、どうも戦闘に先立って外交交渉が行われていたふしがある。もし本当に宋が戦いに勝っていたとしたら、何故、自らに全く不利な協定を受け入れたのであろうか。協定によれば、宋は毎春、銀と絹を遼の使節に贈ることになっている。多分、皇帝が和議の早期締結のために貢物を惜しむなと交渉官に命じたのであろう。それは銀十万両と絹二十万匹という信じられない程、気前の良い条件であった。遼はこの申し出に満足し、既に所領となっていた燕雲十六州の境界まで兵を退く事に同意した。
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1004年、遼・宋間に「澶淵の盟」が締結された遺跡、河南省・濮陽 |
1049年建立の「鉄塔」、河南省・開封 |
宋側の物的負担は、その財政規模からみれば比較的僅かなものとも言い得るが、年収の75%を軍事費に充てていたことを鑑みれば、長期にわたるこの約束は、宋の財政を弱体化させたであろうし、また、まことに面目のないことであったと思われる。しかしながら、「澶淵の盟」は、双方に120年に及ぶ平和をもたらし、国境貿易は盛んになり、遼・宋両王朝は経済、文化の両面で長年の繁栄を享受したのである。
私は、この歴史の現場で皇帝が水を飲んだと伝えられる「御井」と三つの石碑が置いてある小閣に案内された。中央の碑には、宋の皇帝真宗の「契丹出境」(契丹の撤退)と題する詩が刻まれているが、この碑銘にも示されているように、宋にとってはいかなる条件の下でも契丹軍を退かせることが帝位に関わる重要事であった。
濮陽では、もう一つ面白い故事を聞くことが出来た。1958年のこと、毛沢東を乗せた列車が濮陽駅に一時停車した際、挨拶にかけつけた地元の高官達に毛が尋ねた唯一の質問は「北門楼の跡はどうなっているか」であった。様々な質問に応えるべく万全の準備をしていた高官も北門楼については何も知らなかった。しかし今回、市の役人達は私の同じ質問に対して、過去の過ちを繰り返すことなく「契丹出境碑」の北約400メートルの地点に案内してくれた。北門楼跡は小高いところにある平地で、今は市の穀物倉庫が建っているため、宋皇帝が北方をにらんで座っていた姿を想像するのは容易ではない。1077年の黄河の氾濫、そして後世の何度かの氾濫により、城壁や城門も呑み込まれ、低地に何層もの積土が重なって行った。遺跡への坂道を登っていくと、私には1000年前の歴史の場面が足下から伝わってくるようであった。
隋の時代に大運河が開通して以来、開封は水上交通の要衝として重要な地位を占めて来た。この都市の重要性に目をつけた遼太宗(耶律徳光)は947年、開封に侵攻し、三カ月占領した後、目ぼしい財宝と俘虜を奪って上京へ引き上げた。
その後、宋は女真と手を組み、契丹に対抗したが、女真金の太宗は1126年、開封を攻略した。宋徽宗は恐慌に陥り、皇位を息子の欽宗に譲り、金に対して和を請う始末であった。しかし一年後、金軍は再び開封を包囲し、四カ月の攻防の末、宋の二人の皇帝は捕らえられ、北方の地へと連れ去られた。交戦はその後も数年間続き、宋の英雄、岳飛等が失地回復のため戦ったが、最終的には宋は再度和睦に同意する破目になった。1141年に締結された『紹興和議』は宋から金への銀と絹の貢納をさらに増やすこと、金領土の南の境界を淮河の線に定めるとしている。かくして、開封は金帝国の一部となったのである。金の統治下で、開封は南京道行政区の汴京と名付けられたが、それは、175万の人口を擁する金帝国最大の都市であった。1160年頃、海陵王は莫大な費用を投じて開封の再建に着手し、城壁を拡張した。当時の都市は、現在の開封市の地下8~10メートルのところに眠っている。
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現在の開封城壁 | 開封で発掘された金の将軍の印章(開封博物館) |
モンゴルが北から侵攻して来て、1214年に金の中都(現在の北京)を陥すと、金の宣宗皇帝は政治の中心を開封へ移した。遷都の列は2カ月かけて新首都へ生活必需品、書類、宮廷の財宝等を運んで行った。開封は黄河の南に位置していたので、金の朝廷は此処なら大丈夫と安心していたようだ。しかし遷都によって、金は帝国の支配力を弱め、各地で叛乱が勃発した。1223年モンゴル軍は開封を包囲し、翌年入城を果した。この長期戦の中で、モンゴル軍は投石器を使って、手榴弾のように火薬を打ち込んだと言われている。1234年、宣宗の後継者哀宗の自殺を以って、金王朝は滅亡に至る。
私は、開封の有名な「鉄塔」として知られる開宝寺の塔を訪れた。この塔は当初、木造であったが、1049年に再建された際に、錆色の煉瓦が使われたため、この呼び名がある。金の汴京の象徴として、地図にも記されているが、数次の洪水によって浸水し、かつては丘の上に建っていたのが、今では平地になってしまっている。城壁も例外ではなく、浸水によって低くなったため、後の明、清朝はその基礎の上に城壁を築いた。現在、開封の城壁は見事に修復され、金汴京当時の面影を伝えてくれている。
開封博物館にも、金時代のものは僅かしか残っていないが、私は女真の将軍が所有していたと言われる赤い印章に強く心を魅かれた。どんな文書がこの印章で決裁されたのか、そしてその文書は当時の国家間の関係にどのような意味をもっていたのであろうかと私の思いは尽きるところがない。
人民中国インターネット版 2010年12月