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北京放送に励まされて

 

文=田阪友隆

私が中国を最初に強く意識したのは、日本海を越えてくるラジオの音声でした。北京放送のニュースは当時「日本の同志の皆さん、友人の皆さん、こちらは北京放送局です……」という呼びかけから始まりました。 

プロフィール

田阪友隆(たさか ともたか)1950年8月生まれ。1974年、早稲田大学卒業後、NHK入局。1992から1999年までNHK上海支局長。帰国後、国際放送局国際企画部、報道局映像センター長を経て、現在はNHKインターナショナル理事。

1960年代後半、高校生だった私はベトナム戦争に反対するデモに参加し、また米軍基地が集中する沖縄で地元の高校生と討論会を開くなど積極的に活動していました。

そのころ私たちを励ましてくれたのは北京放送でした。流暢な日本語で「勇敢な学生たちは首相・佐藤の南ベトナム傀儡政権に協力する訪問に反対して羽田空港付近で実力闘争を展開しました……」と伝えていました。連日、日本の反戦闘争がトップニュースで、深夜、雑音まじりの北京放送を聞きながら、私たちは中国へのシンパシーを強く感じ、紅衛兵運動も手放しで礼賛、毛主席語録日本語版の学習会を開いたりもしていました。私たちの周りは、みんな、中国ファン。1本100円の上海製万年筆「英雄」はクラス全員が持っているほどでした。団塊の世代は、多かれ少なかれ当時の中国に強い憧れを抱いていたと思います。

4半世紀後の1992年、NHK支局長として上海に赴任し、「社会主義市場経済」を打ち出し、変化して行く中国の動向を伝えるニュースを毎日、日本に発信する一方、高校時代に抱いた中国像を探し求め、何本かの企画ニュースを作りました。印象深かったのは、1993年に上海浦東新区政府がかつての下放青年を幹部として採用したというニュースでした。日本でも大きな話題を呼び、NHKスペシャルを作ろうと言うことになりました。 

しかし、取材許可が下りませんでした。理由は「文革は、まだ歴史になっていない。当時を振り返る番組は、古傷が痛む」というものでした。この番組の制作を通じて、高校時代に憧れた中国に対する心の決算をしようと思っていましたが、それができなかったのは今でも残念に思っています。

そして、さらに20年後の今は、定年退職後の第2の職場でCCTV(中国中央テレビ)の若い記者たちとお付き合いしています。彼らのスマートな姿と言動からは、私が若い頃に抱いた中国像は、まったく感じられません。高校時代の私を雑音まじりの音声で勇気付けてくれた北京放送も中国国際放送と名前を変え、デジタル技術で明瞭な音声になり、鮮やかな映像も付いてインターネットで見られるように変わっています。 

私は、今、中国の放送局から仕事をもらっています。中国国際放送のインターネット映像が伝える中国の姿は、東日本大震災・福島原発事故で意気消沈する私を勇気付けてくれます。「中国経済は当分、順調で、中国関連の仕事をしていれば、まずは食っていけるな」と、考えています。

昔は北京放送に「政治的」に励まされ、今は中国国際放送に「経済的」に励まされている私です。(『人民中国』2011年11月号より)(朗読=光部 愛)

 

人民中国インターネット版 2011年12月

 

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