浙江省杭州市 西湖を彩る文化的な景観① 二大詩人が築いた二つの堤
劉世昭=文・写真
浙江省杭州市の西湖は昔、武林水とか銭塘湖とか呼ばれ、また西子湖とも名づけられていた。もともとは海の湾だったが、川の流れが運んできた土砂が長い間積み重なって、だんだんと大海から切り離され、潟湖となった。そして何代にもわたって浚渫や建設整備が繰り返され、ついに半ば封鎖された浅い湖となった。
「西湖」という名が最初に現れるのは、後漢(25~220年)の学者、班固による『漢書』の巻28『地理志』である。その後、北魏(386~534年)の地理学者、酈道元による『水経注』にも記載されている。西湖は少なくとも2000年の歴史があると言える。
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白堤の西端、西湖に浮かぶ島である弧山には、清の光緒30年(1904年)に創立された「西印社」がある |
唐の穆宗の長慶2年(822年)10月、白居易は杭州にきて「刺史(州の施政官)」に就任した。それ以前の唐の徳宗の建中2年(781年)から興元元年(784年)の間、杭州刺史を務めた李泌が住民の飲用水問題を解決するために、6つの井戸の整備工事を行っていた。しかし白居易が着任した時には、地下の配管がしばしばふさがり、水の流れが悪く、城内への水の供給に影響が出ていた。そこで白居易は、西湖の状況を視察したあと、多くの反対意見を押し切って、湖水を引き、井戸を浚う工事を取り仕切った。また、西湖の東北の岸の一帯に「捍湖大堤」という堤防を建設し、効果的に貯水したり、増水時に水を排出したりして、耕地の灌漑用水や住民の飲用水を確保した。工事が竣工した後、彼は『銭塘湖石記』を書いて、湖のほとりの石に刻んだ。そこには湖の浚渫や井戸の掘削、農地の灌漑の必要性と可能性が述べられており、後世の人々が西湖の水を合理的に管理し、利用するよう諄々と説いている。
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白堤上の錦帯橋。もとは木造で、後にアーチ形の石橋に改築された。1673年、日本の岩国藩第3代藩主の吉川広嘉は、この橋に啓発され、岩国市に錦帯橋を造った |
蘇軾は、宋の哲宗の元祐4年(1089年)に杭州の太守に就任した。ちょうど大干ばつに襲われ、西湖の水は枯れ、人々はひどく苦しんだ。次の年、蘇軾は意を決して、夏から秋まで20万人を動員し西湖を浚渫し、掘り出した湖の泥や真菰で、湖を南北に貫通する堤を築いた。
堤は全長2.8キロ、そこに6本の橋が架けられている。その橋は「映波」「鎖瀾」「望山」「圧堤」「東浦」「跨虹」といい、通行に便利であり、西湖の景観に彩りを添えている。蘇軾の功績を記念するために、人々はこの堤を「蘇堤」と命名した。
湖中心の最も深いところに、三基の石塔が聳え立っている。これも蘇軾が当時建てたものだ。水面の清潔さを保ち、土砂の堆積を防ぐため、この石塔を境に、この内側は菱やレンコンの栽培が禁止されている。これが後に「三潭印月」と呼ばれる景観として有名になった。
蘇堤に沿って多くの鑑賞用花木が植えられている。一年中、色とりどりの花が美しく咲き乱れ、多くの観光客を集めている。南宋の時代には、ここはにぎやかな市場だった。
西湖の中心にはさらに三つの島がある。小瀛洲、湖心亭、阮公墩である。いずれも歴代の西湖の浚渫が残したものだ。湖の中にあるこれらの島々は、人々に仙境にいるような感じを与える。「蓬莱仙境」への中国古代の人々のあこがれともぴたりと合っている。
西湖はその美しさ故に、中国の代々の歴史の上に、極めて中国の特色のある「有名景観」としてその名を残している。南宋の「西湖十景」、元の「元十景」、清の「清十八景」、現代の「新西湖十景」「西湖新十景」などである。千年を経て、今もなお最も人口に膾炙しているのは、やはり南宋の「西湖十景」であろう。それは「柳浪聞鶯」「曲院風荷」「南屏晩鐘」「三潭印月」「雷峰夕照」「断橋残雪」「双峰挿雲」「平湖秋月」「蘇堤春暁」「花港観魚」である。
白堤と蘇堤をそぞろ歩くと、「西湖十景」のほとんどが次々に目に入ってくる。人々は堤の中央の道路を、自転車に乗ったり、ジョギングしたり、観光したりしながら進む。写真の好きな人たちは、美しい景色をカメラに収め、恋人たちは寄り添いながらささやきを交わす。湖に釣り糸をたらすお年寄りたちは、千年の歴史のある西湖には、必ず大きな魚がいるに違いないと信じている。
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蘇堤の傍らにある「花港観魚」 |
西湖の中央の3島の1つである小瀛洲の景色 |
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白堤と蘇堤は、恋人たちのデートや散歩の人気スポットだ | 断橋のそばにある亭には、毎日、踊りの好きなお年寄りが大勢集まってくる |
人民中国インターネット版 2012年3月