浙江省杭州市 西湖を彩る文化的な景観③ 名山名水の賜 龍井茶の香り
劉世昭=文・写真
|
呉山にある米芾が書いた「第一山」の石碑 |
西湖の東南にある城隍山頂上にある城隍閣からは、南北西の3方が山に取り囲まれ、東は市街地に臨むという西湖の全貌をはっきりと眺めることができる。
隋の大業6年(610年)に開削された江南運河は、北運河とつながり、中国の海河、黄河、淮河、長江、銭塘江という五大水系と結ばれたため、杭州の交通は便利になり、経済も発展し、都市としての地位がしだいに向上していった。
歴史上、西湖に対して影響が最も大きかったのは、五代十国時代の呉越国(907〜978年)と南宋(1127~1279年)の時代であろう。この二つの時代には杭州が首都とされ、西湖に全面的な開発と整備が行われた。西湖およびその周辺の景観による「三面が山に面し、一面が都市に面する」という空間配置がこの時に形づくられた。とりわけ仏教を信仰する呉越国の歴代の国王たちが、西湖の周辺に多くのお寺や宝塔、経幢、石窟を造営したので、西湖はその当時からすでに観光名所となっていた。
西湖の南東岸にある呉山は、雲居山、清平山、紫陽山、宝蓮山、七宝山、宝山、城隍山、浅山、伍公山、娥眉山、螺絲山など十数の峰からなる。呉山はかつて「第一峰」と呼ばれていたが、それにはこのような由来が史料に記されている。金(1115~1234年)の海陵王(在位1149〜1161年)は、西湖の美景にあこがれ、江南地方を手に入れるという野望を抱いた。そこで、一人の絵師を臨安(今の杭州)に潜入させ、西湖の絵をひそかに描くよう命じて、彼はその絵に「兵百万を提ぶ 西湖の上 馬を立てん 呉山の第一峰」という詩を題したという。今でも、呉山には宋代の書家米芾が書いた「第一山」の石碑が残っている。
|
南宋御街 |
西湖の北東にそびえ立つ赤褐色の宝石山には、北宋代に造営が開始された六角形をした7層のレンガ塔、保俶塔がある。この塔は西湖南岸にある雷峰塔とはるか遠くで呼応しており、西湖両岸のランドマークとなっている。人々はすらりとした保俶塔を美しくしとやかな女性に例え、太くて頑丈な雷峰塔を愚鈍な老僧と見なす。これも西湖の風景にユーモアの味を添えている。
西湖の西側には、山が幾重にも連なる丘陵がある。休日になると、人々が相次いでここに集まってくる。その目的はただ一つ、お茶を味わうことだ。ここのお茶栽培は唐代(618~907年)から千年ほどの歴史を誇る。中国で最も有名な緑茶――龍井茶(ロンジンチャ)はここが原産地だ。かつての文人や士大夫(高級官僚)、お寺の高僧たちは、西湖三大名水の一つ「虎跑泉の水」でいれた「明前龍井茶(清明節前に摘み取った龍井茶)」が、お茶の最高境地だと考えた。龍井茶には上品で清らかな、幽玄な文化が含まれているのである。龍井村の山間の窪地には、今でも清代の古い茶の木が18本生き残っている。言い伝えによると、清の乾隆帝が江南にやって来た時、ここで西湖の龍井茶を賞味したあと、その味を絶賛し、この18本の茶樹に「御茶」という称号を与えたという。
|
龍井村の「18本の御茶」 |
早朝、虎跑泉へ行く道には、さまざまな容器を手にしたお年寄りたちが行き交っていた。すべて家で龍井茶をいれる水を汲むために来た人たちである。よその人から見れば、彼らの平凡で規則正しい生活は、どんなに羨ましく、あこがれることだろう。
|
|
春茶摘み |
毎日多くの市民が虎跑泉で水を汲んで、その水でお茶をいれて飲む |
何度も外国からの賓客のお供をして、杭州の西湖を訪れた周恩来総理が、「西湖には名物がたくさんありますが、私はその中でお茶だけを選びます」と感慨をもらしたのも、うなずける話である。
|
|
茶を炒る盧新さん。「もともとは薪を燃やして鍋でお茶を炒っていましたが、山の木を大量に伐採してしまい、環境が破壊されてしまいました。1958年以後、電気鍋が研究・開発され、今でもこの鍋で高級龍井茶を炒っています」と語った |
宋代に掘られた「上八眼井」 |
人民中国インターネット版 2012年8月28日