浙江省杭州市 西湖を彩る文化的な景観② 東南の仏の国岳飛祭る廟も
劉世昭=文・写真
史書によると、杭州における仏教は東晋に始まり、五代に興り、南宋に盛んとなり、宋の時代に寺院の数は480になったという。杭州は「東南の仏の国」と呼ばれている。
東晋の咸和元年(326年)、インドの高僧・慧理が杭州の飛来峰と北高峰の間のふもとを訪れ、秀麗な山々を目にして、「仏道修行者の心霊が隠れ住む所」だと見て、寺を建て「霊隠」と名づけた。それは杭州初の仏教寺院となった。
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霊隠寺天王殿に安置されている仏教の護法神・韋駄天の彫像は、高さが2.5㍍あり、黄金の兜をかぶり、甲冑を身に付け、顔色がつやつやとして輝くクスノキの木像だ。これは南宋から今まで保存されてきた貴重な文物だ |
天王殿の中央にある仏像を入れる厨子の仏龕には、胸をはだけて腹をあらわにし、座布団に趺坐し、晴れやかに微笑む弥勒菩薩の仏像が祭られている。その裏面の仏龕には、仏教の護法神である韋馱天菩薩の彫像が祭られている。この彫像の素材はクスノキで、高さは2.5メートル、黄金の兜をかぶり、甲冑を身に付け、顔色はつやつやと輝いている。南宋(1127~1279年)から残されてきた貴重な遺物だ。
天王殿前の両側にそれぞれ一基の石づくりの経幢があり、「天下兵馬大元帥呉越国王建、時大宋開宝2年己巳歳閏5月」といった題辞がある。もともと呉越国銭氏の祠である奉先寺に安置されていたが、寺が廃棄されたため、北宋の景佑2年(1035年)に霊隠寺の住職によって寺内に移転された。
屋根の高さが33.6メートルに及ぶ大雄宝殿は迫まってくるようなの勢いを感じさせる建物で、中に高さ19.6メートルの釈迦像が祭られている。威厳のある仏像は堂々とした気品を感じさせ、中国国内でクスノキ製の最大の釈迦像だ。
古来より、霊隠寺を訪れる観光客と参拝客はひっきりなしだ。仏教の重要な祭日になると、参拝客はいっそう増える。予約を取らないと入られないこともある。
杭州を訪れると、浄慈寺はもうひとつ見逃すわけにはいかない寺院だ。同寺は背後に南屏山を控え、西湖に面して建てられ、寺の前に仏髪の舎利が祭られる雷峰塔が聳え立っている。浄慈寺は後周の顕徳元年(954年)に建設がはじまり、中国の歴代の君主がほとんど仏道を崇めたため、浄慈寺は皇族の寺院となり、一時期杭州最大の寺院群でもあった。実際、浄慈寺が今昔にわたって名を馳せたのは南宋から西湖十景に数えられた「南屏晩鐘」だ。夕日が沈むにともない、寺内の鐘の音が響き渡り、広々とした水面をかすめて広がり、山々につくとまた屈折して戻り、西湖の空中でこだまする
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毎夕、浄慈寺の鐘楼に上り鐘をつく僧侶は「鐘声偈」を朗誦しながら108回をつく。おおよそ30分かかる |
西湖の北西岸に位置する岳王廟は南宋の金国と戦う著名な英雄岳飛を祭るお寺だ。幼少のころから、母の「尽忠報国」(忠誠を尽して国に報いる)という教えにしたがって、金の侵略に抵抗し、勇敢で戦いに長けた将軍になった。しかし、彼は金に降伏することを主張した宰相秦檜、張俊らに謀反の罪に陥れられ、獄死した。岳飛が死んでから21年後、宋孝宗は彼の冤罪をそそぐ、盛大な儀式で岳王廟に祭った。岳王廟は南宋嘉定14年(1221年)に、元の智果観音院の旧跡で建てられたもので、後に褒忠衍福禅寺と改称し、明朝景泰年間(1450~1456年)に、名を忠烈廟に変え、現存している建物は清朝の康煕54年(1715年)に再建されたものだ。
岳王廟の建物は東西の二つ部分からなっており、東側は岳飛を記念する忠烈祠で、西側は岳飛の墓、正気軒、啓忠祠だ。忠烈祠は岳王廟の主体建築だ。正殿の大門の両側、また、内の廊下の柱に、いろいろな対聯が掛かっている。人々が愛国英雄に対しての懐かしさと敬愛、暗愚な君主と奸臣に対しての軽蔑と怒りを表した。正殿の正面は高さ四・五四㍍の岳飛の坐像がある。坐像の上には岳飛の親筆「還我河山」(山河を我に還せ)の扁額が掲げられ、これが彼の生涯の目標だったことを物語っている。
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岳飛の墓の前に跪く奸臣秦檜と王氏の鉄像 |
西湖の北岸に位置する葛嶺の密林に、晋代に建てられた道教の寺院――抱朴道院がある。伝説によると、東晋の道教の大師・葛洪がここで不老不死の妙薬金丹を作る煉丹を行った。いまでも、かつて彼が丹を練った時使った古井戸が残っている。山の上の初陽台は当時、葛洪が日の出を観測した場所だ。
葛嶺に登ると、西湖と杭州市の美景が一望できる。2度杭州に行ったことがあるニクソン元米大統領は「北京は中国の首都だが、杭州はこの国の心臓だ。私はまた来たい!」と称賛したそうだ。
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抱朴道院の正門の外に作られた築山は宋代の造園の傑作 |
岳王廟に祭られている岳飛像 |
人民中国インターネット版 2012年7月