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重慶市銅梁県 人々の希望を託し 新年祝う龍の舞い

 

◆龍の習俗の変遷

銅梁は、昔の巴国であり、巴国の人々は龍・蛇を崇拝していた。銅梁は涪江と瓊江の合流点にあり、洪水に見舞われ災害が多発する地域だった。民間の伝えによれば、魯班(中国の伝承上の大工の祖)が、かつてこの地に廟を建て神龍を祭ったところ、神龍が天上より降りて、涪江の水害を治めたという。そこで、当地の人々は龍を神と崇め、祝祭日に龍舞を行い平安を祈る、という。

「火龍」は、土地の人が最も好む華やかな龍だ

銅梁の人々は、古来より龍灯作りや龍舞を好む。伝えによれば、1400年以上の歴史をほこる県内の有名な古刹、侶俸寺と、その少し後に建立された波崙寺には、龍にまつわる様々な装飾や図案があったという。人々は歌いによって、龍の神霊を引き寄せ、踊りによって龍の動きを真似ることができると思い、歌いや踊りを通じて神龍を喜ばせ、また自身にも龍の気性や力が備わると信じている。

銅梁は米の名産地だ。最初の龍は稲わらで作った龍だったが、火の気に対して不便なため、竹ひごで作った火龍に変えた。以前は、火龍の頭部には色絵が施されており、胴部はいくつかの「棟」という硬い木の塊を縄でつないだもので、「皮」も「肉」もなかった。その後、頭が大きく首の長い正龍、または硬頸龍と呼ばれるものに改造された。さらに、正龍の首が長くて硬く、操るに不便なため、柔らかな首の構造に改造し、二種類以上の色布を背筋として各「棟」をつなぎ、彩龍となった。1924年前後、龍灯づくりのベテラン職人である李傑之さん、劉連山さんは、彩龍をもとに、「棟」ごとに環状の「あばら骨」を増設し、龍の胴体をより丸々とがっしりとさせた。しかも、各「棟」が自由に伸縮し、転がることができる。このようにして「骨」も「肉」もあり、くねくねとうごめく新しい龍が誕生した。民間では、これを「大龍」または「蠕龍」と呼ぶ。また、現地の状況に応じて改造を行い、簡素で実用性にすぐれた「腰掛龍」や干ばつのときに雨乞いに使う「黄荆龍」、追悼用の「孝龍」、および細い竹ひごの骨組みに綿紙を張って作った魚灯、亀灯、獅子灯、虎灯、貝灯などさまざまな動物形の飾りちょうちんを開発し、種類豊富な龍灯や飾りちょうちんの系列を確立した。

周千明さんの「龍城龍灯工芸廠」の内部

ここ数十年、銅梁の龍は、さらに工夫を凝らし新しいアイデアを設計に取り入れた。獅子の頭、鹿の角、えびの足、鰐の口、亀の首、蛇の胴体、魚の鱗、二枚貝の腹、魚の脊、虎の掌、鷹の爪、金魚の尾を龍の一身に集め、従来型の口が閉じた龍を口が開く龍に改造した。銅梁の龍の特徴は、総じて「大、長、活」の三文字にまとめることができる。「大」は胴体だけではなく、その形のダイナミックさをも指す。「長」といえば、大きな龍の胴体は、二十四節もあり、長さは約50㍍であること。「活」は、動きが流暢で、生きた龍の様子をほうふつとさせることである。

かつて、銅梁の春節(旧正月)の習わしでは、旧暦1月の2日から7日までは獅子舞、9日から15日までは龍舞、11日から13日までは「打鉄水」(溶けた鉄をひしゃくで空中に放り、花火のような鉄の火花を散らす行事)、15日の行事を終えると、龍を焼き捨てる。

張隊長によると、これまで毎年の銅梁の龍舞会では、旧暦1月9日の昼間に「龍の総出」の行事を行う。龍を作ったすべての「同業組合」、組織、街道・郷・村はそれぞれ自分の龍舞チームを率い、街中をパレートする。家々の門前を寄りかかると、住民は香を焚いて蝋燭を点し、爆竹を鳴らして龍を迎える。城隍廟、川主廟、火神廟、孔廟などの場所につくと、神々の前で龍の頭を動かし、廟を一周して参拝する。こうした「開眼」を受け、龍は霊気を持つようになる。霊気が宿る龍には、人々のさまざまな夢や望みが託されている。たとえば、龍舞が終了した後、造酒工場ではチームを招き、酒を惜しまず全員をもてなす。15日の夜、龍舞のチームは主幹道路をパレードした後、広場に集まり、すべての道具を焼き捨て、神龍の昇天を見送る。

銅梁の龍舞の中で、火龍と腰掛龍は、火花を作る場合によく使う龍である。たとえ経費不足でも、元宵節に行われる行事に火龍は欠かせないものだ。いずれ最後には焼き捨てるため、かつての火龍の形は比較的シンプルで、あまり工夫を凝らしていなかった。かつて火龍は全国各地に広く存在しており、邪気を払い吉祥を祈る目的で使われていた。最後に焼き捨てるのは、神霊が天上に戻るように見送り、新しい一年を迎える最も盛大な儀式だ。

◆龍作りの職人

周千明さんと父親の周生全さん、技は親子3代にわたり継承されている

銅梁の数多くの龍作りの職人の中、最も有名な経験豊かな職人は、周均安さん(1908~1993年)、蒋玉霖さん(1924~)、傅全泰さん(1934~)の三人で、「銅梁龍灯の三大伝承者」と呼ばれている。かつて、県城の四つの大門の付近には、紙工芸の職人の店舗があった。当時、職人は大勢いたが、普段は畑仕事または葬式用具作りをし、年末になると、龍の製作にとりかかる。のちに、龍舞の行事は一時廃止され、紙工芸は後継者を失う危機に瀕していたが、1980年代に龍舞が再開され、ようやく生き残った。1984年11月、安居鎮にはじめての「銅梁民間紙工芸工場」が開設され、ベテラン職人の周均安さん、李開福さんが相次いで龍作りの工場を建てた。現在では、県内には六つの紙工芸の工場があり、それぞれ優れた技術の職人チームをかかえ、農閑期には200人以上を動員して龍作りに専念することができる。

周均安さんは、銅梁太平鎮の出身、一家三世代が龍作りの達人で、「龍作りの家柄」とたたえられ、しっかりとした深みある技法によって、伝統的な作品が作られている。周均安さんは、1993年に85歳で亡くなったが、息子の周生超さん、周生全さん、孫の周和平さん、周健さん、周千明さんが家伝の事業を受け継ぎ、みな銅梁の民間工芸美術家になっている。周千明さんが開設した龍城龍灯工芸工場で、何人かの作業員の細やかな仕事ぶりを目にした。

龍作りの工程は、主に、材料の用意、骨組み作り、紙張り、模様描き、組み立てなどからなる。龍は頭、胴体、尻尾の三部分からなり、胴体や尻尾と比べ、頭の骨組みは複雑で、熟達した職人でも二日間かかる。周千明さんは幼いころから龍作りの名人でもある祖父、周均安さんに師事し、龍作りを会得した。18歳のとき、祖父の許可を得て、はじめて龍の頭を作ったという。

龍の頭は、本体、上下の顎、鰓、角の四部分からなる。本体はまず三つの竹の輪を作り、四枚の竹ひごでその三つの輪をつなぐ。次に、上部の顎を作り、下部の顎を動く構造に作る。続いて、龍の鼻を作り、まっすぐで左右対称にする。その後、牙、鰓、角の順で作り、最後に龍の眼を取り付ける。市場のニーズに対応するために、周千明さんは、この過程に多くの改善を行った。周さんによると、長さ約二㍍の龍の胴体の色絵付けは、これまでは手作業で、一日かかったが、今はパソコンによってプリントすると、わずか数分間で仕上がる。また、かつての龍に纏う衣は綿紙だったが、今は絹織りの布となり、丈夫で操りやすく、長持ちするようになった。

周千明さんの父親、周生全さんは12歳から父親に師事し、技を習得したが、龍舞の行事が一時期廃止されたため、寺などのために泥の塑像を作ったり、壁画を描いたりしていた。現在、70歳を超える周さんは数十年間龍作りに従事していたが、指の関節が時々痛むため引退した。民間の職人たちは、こうして代々引き継がれ、銅梁の龍の工芸はさらに発展することだろう。

 

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