玉と金の結合「金鑲玉」 乾隆帝が独占指示 名工の執念で再現
魯忠民=文・写真
旧石器時代の晩期から
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旧石器時代から奴隷社会、封建社会にかけて、身に付けた玉器がその人の社会的な地位を示していた。社会の発展に伴って、磨いた玉器から彫刻を施した玉の彫刻作品へと進化を遂げた。新石器時代の玉の龍や玉璧、商・周王朝の玉の刀や玉の戈、春秋時代の剣の装飾や帯の鉤、漢代の瑞獣、唐・宋時代の花や鳥のかんざし、元・明・清の大型玉彫刻へと進み、清代になって玉加工芸術はその頂点を極めた。
中国人は美しい玉を愛で、玉は人の徳性を含むあらゆる好ましいものの喩えに使われている。儒家は「君子、必ず玉を帯びる」といい玉にこだわった。玉器の質によって、5徳、9徳、あるいは11徳があるという説もある。人々は玉を観察したときの直感に基づいて、連想したりこじつけたりして、人間の精神、社会的な倫理観などと関連付け、玉器が永遠に栄える精神的支柱を築いた。
清末に絶えた秘伝伝承
2007年、国家博物館が主催した中国玉彫刻名家作品展で、中国工芸美術の大御所といわれる楊根連さんが制作した「金鑲玉(金を象眼した玉)」の数珠に1600万元の値段が付けられた。108個の透かし彫りの玉の両面には、髪の毛のように極めて細い金糸で「寿」の文字が象眼されている。「金鑲玉」という絶技が世の中の人々の前に蘇ったのだ。
「いくらお金があっても『金鑲玉』は簡単には買えない」という俗諺がある。「金鑲玉」は学問的には「金銀錯嵌宝石玉器(金銀を象眼した宝石、玉器)」と命名されており、その歴史は漢代まで遡ることができる。王莽(9~23年)が帝位を簒奪した際に、玉璽を渡すよう、皇太后に迫った。怒った皇太后が玉璽を地面に投げつけると、角の1カ所が欠けてしまった。その後、腕の優れた職人に欠けた角に黄金を嵌め込ませ、「金鑲玉璽」と名付けた。これが「金鑲玉」の由来だ。
「金鑲玉」の技術の高さは「鑲」の1字に集約される。繰り返し何度も叩き、金糸か金箔を玉器の図案に嵌め込む。清の乾隆帝(在位1736~1795年)は、1757年、イスラム教1派の大、小ホジャの反乱を平定して、新疆を統一した。その後毎年、多数の玉器の貢物が献上されるようになった。
その中にあったのがイスラム風の「金鑲玉」だった。紙のように薄く透き通り、金、銀の糸やいろいろな色の宝石が嵌め込まれた器を目にした乾隆帝は気に入って、その玉器を手にしたまま、その場で「金鑲玉」は宮廷で独占し、外に流出させてはならない、また、内務府の工房・造弁処にまねて造るように命じた。宮廷の玉職人は知恵を絞り、汗をかいて、磨きに磨きをかけ、中国の伝統工芸と融合させ、ついに皇帝の風格にふさわしい「金鑲玉」を作り上げた。乾隆帝は御製の数十編の詩でその美しさを賛美している。しかし、清の末期には「金鑲玉」はじめ多くの宮廷秘伝の工芸技術の伝承は途絶えてしまった。
長年姿を消していた「金鑲玉」は、近年になって、玉彫刻の名工・楊根連さん(51)が秘伝を再現し、研究を重ねた結果、ついに蘇らせた。
楊さんは「金鑲玉」は金と玉の完璧な結合で、良縁を象徴し、ともに輝き合っていると語る。玉は硬く、強靭で、光沢があり、緻密透明な美しい石。一方、金は穏やかで豪華、まぶしいほど輝き、きらびやかな金属だ。金と玉の結合によって、玉の穏やかな色つやと金の華やかさを兼ね備えることができ、「金と玉が堂を満たす」「金と玉は福寿に富貴を添える」というように、金と玉は富裕、高貴、幸福、長寿などあらゆる好事を象徴している。
「三品」は友情のきずな
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玉の話になると、滔々としゃべり続ける楊根連さん |
十数平方メートルの小さな部屋にクスノキの茶卓があり、楊さんが作った「金鑲玉」の茶道具が置いてある。友人が訪ねてくると、良いお茶をいれて、玉の茶碗で味わってもらう。体に染み渡るような潤いや柔らかさ、さわやかな香りやほろ苦さ、まろやかさを感じてもらえると、楊さんはうれしそうに微笑む。「金鑲玉」は最高の玉器で、この茶碗を見て、お茶を飲んだ人はみんな彼にとって縁のある人になるそうだ。お茶で友情を結ぶのは、お茶を三口飲んで味わうように、口を三つ書いて「品」——つまり「品定め」を大切にすると言う意味だ。お茶、玉、人生の三つをお互いに「品定め」するのだ。
楊さんは1960年、北京の玉職人の家に生まれ、父と姉、弟も玉職人だ。父はかつて青山居(現在の北京東城区花市)で活躍していたベテラン職人。昔、このあたりは数多くの腕のいい玉職人や玉器商人が集まり、ずっと近所付き合いをしている。楊さんは幼いころから頭がよく、勉強好きで、十数歳から玉のよしあしや種類を鑑別できた。父の友人達は彼が玉に興味あることを知り、会うたびに、玉のことを教え、実技も指導した。これが玉彫刻人生のきっかけだった。ある日、ひとりの老人が楊さんが作った「鼻煙壺(かぎタバコを入れる小瓶)」を見て、息子に頼んで、楊さんを招いた。車椅子に座り、いろいろなことを教えた上で、最後に門外不出の秘伝を伝授した。こうした世間話から知ったのが、途絶えていたと思っていた伝統の技だった。それが「金鑲玉」だ。
「作品はみな私の子ども」
別の一室はコレクション収蔵室で、楊さんが長年にわたって制作した鼻煙壺、玉の如意、小さな装飾品、「金鑲玉」のアクセサリーなど玉彫刻の逸品が陳列されている。これらの作品はみな自分の子供だと彼は言う。「年配者たちがよく言うように、子供を育てたことがなければ、その苦労が分からないし、玉を彫刻したことがなければ、その難しさが分かりません」。すべての作品は自分が「心を込めて」彫刻したもので、玉を彫刻するのは実は「心を彫刻する」ことだと彼は感慨深げに語ってくれた。楊さんはまさに玉マニアで、いつも玉の話を持ち出し、しかも滔々としゃべり、とどまるところを知らない。
1979年、19歳の時から、北京玉器工場で働くようになった。謙虚に先輩に教えを請い、苦労をいとわず研鑽を積んだ。十数年後、作品の鼻煙壺は次々と玉器史上の最高記録を更新した。薄さ、美しさ、仕組みの巧みさなどの6部門で一位に輝いた。ある時、河南産の碧玉で作った瓶体の極めて薄い鼻煙壺が、新疆産だと勘違いした香港商人の目に留まり、高値で購入する意向を示した。その商人は河南産だと知っても、作業場の30個の壺の総額以上の値段でこの鼻煙壷を買い取った。1987年、楊さんは古代から伝わってきた巧みな薄生地の玉器内刻を初めて目にして、非常に驚いた。大胆な試みを繰り返し、彼にとって初めての薄生地内刻の制作に成功、世に問うた。その後、薄生地の対瓶(対になっている鼻煙壺)を作ってみたが、形が完全にそろっているだけではなく、重さもまったく差がなかった。この対瓶は1990年の全国百花設計創作大会で一等賞を獲得した。その後、楊さんの作品はよくオークションに掛けられるようになり、わずか10元のメノウを材料にした薄生地の鼻煙壺が17万元で落札された。それから、「薄生地づくりの楊」「壺王」などの美称で呼ばれるようになった。
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内部のチェーンを引き出した鼻煙壺 |
玉彫の「福禄万代」 |
「金鑲玉」の「開心見仏」(内部) | 「金鑲玉」の「開心見仏」(外観) |
「国」の真ん中にも「玉」
楊さんは1993年、北京玉器工場を辞め、「金鑲玉」の研究に専念した。「金鑲玉」の器具はかつて皇帝専用で、その技術は伝承されず既に途絶えていたが、長年の研究を経て、ようやくその技を会得した。さらに、イヤリング、指輪、ネックレス、ブレスレットなどのアクセサリーに活用し、宮廷工芸の花を民間で咲かせた。
中国人は無我夢中になるほど玉を深く愛している。だからこそ玉を敬い、玉を帯び、玉を鑑賞し、玉を弄ぶ。玉の潤いはそわそわして落ち着かない心を静め、玉の色はくさくさして悩み苦しむ心を慰め、玉の純粋さは汚れた心を浄化してくれる。君子は玉を愛で、玉から天然の霊気を求めようとした。楊さんはNHKを含む多数のテレビ局に招かれ、玉の意味深長な文化を紹介した。
中国人は古くから玉を愛している。玉という字は王に点を加えた字だ。中国の「国」という字にも真ん中に玉がある。国の中に玉があり、玉は国の魂。奪われそうだった名玉を趙の名臣・藺相如(前329~前259年)の働きで取り戻す「完璧帰趙」では玉の貴重さに賛嘆させられる。曹雪芹(1715頃~1763年)の『紅楼夢』は通霊宝玉にまつわる奇縁を描いたものだ。歴代皇帝の至高の権力はひとつの玉璽に代表されており、神仙世界の最高統治者も玉皇大帝という。また、中国語の表現を見ると、すらりとした美女を形容する「亭亭玉立」、幸せや円満を形容する「金玉満堂」「書中自有黄金屋、書中自有顔如玉(勉強すれば黄金の家が建ち、勉強すれば玉のような美人を得る)」など、数え切れない。玉に託された意味はすべて美しく、好ましい。
磨かなければただの石
「玉は磨かないと、器にならない」。古代の人々は玉に霊性があると考えた。しかし、玉の霊性は元から原石に備わっているものではない。「他山の石」で玉を磨く必要がある。玉より硬い石、あるいは金属で作った道具で磨くが、玉はかなり硬くてもろいため、ちょっと気を緩めると割れてしまい、それまでの努力が無駄になる。玉職人たちがひとつの作品のために、「薄氷を履むが如し」で、用心に用心を重ね、多大な精力を傾けていることは想像に難くない。そこには彼らの汗や霊感が凝縮されており、こだわりや進取の精神が込められている。玉の原石が玉器に変わる過程は人が玉に霊性を注ぎ込む過程だと言えよう。
「人が玉を磨くと、玉は人を磨く、さらに人は玉を磨く。そして最後は玉が人を磨く」と、楊さんは言う。最良のものを作るために、職人は常に1年、10年、時には一生の精力を注ぐ。歴史に残る玉器の一つ一つに命が注ぎこまれている。「私の師匠のひとりは、一生を通して玉器をつくり、技術はずば抜けていました。しかし、高齢になってから、玉の瓶を作っていた時、完成間際で、手元が狂い、瓶の角を壊してしまいました。その瞬間、彼は目がすわり、ひと言も発しませんでした。生涯勝気で通してきた彼はその現実を認めようとはしませんでした。その後、彼と再会した時、彼はもう私のことを覚えていませんでした」