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山東省濰坊市 大空へ憧れ乗せて揚がる凧

 

4月上旬、私たちは「たこの都」と呼ばれる濰坊市にやって来た。うららかな日射しを受けて、街頭にも広場にも、たくさんの凧揚げをしている人がいた。大人もいれば、子どももいる。空にはとても大きな現代風なたこも、さまざまな伝統的なたこもあった。

濰坊のたこの歴史

博物館に収蔵されている日本の伝統的なたこ
たこ記念広場の傍に、1989年に建てられた濰坊たこ博物館がある。屋根が空を飛ぶ龍の形のようなこの博物館は、総面積8100平方メートルで、館内には総合館、中国館、濰坊館、友誼館など12の展示館が設けられている。内部には古今東西のたこの珍品やたこに関する文物・資料2000点余りが展示されており、たこの歴史とその種類、濰坊国際たこ揚げ大会、たこを通じた国際的往来や、濰坊市の概況を紹介している。

たこは、古くは「紙鳶」、または「鷂子(ハイタカ)」と呼ばれ、中国最初のたこは山東省の大地に揚がった。2、3000年前の春秋時代、魯班(魯国の伝説的な大工)が空に飛んでいるハイタカを見て、啓発を受けてたこを創ったと言われ、「竹を削ってカササギの形を作り、これを飛ばしたら、3日間落ちなかった」と史書に書かれている。イギリスの有名な学者ジョゼフ・ニーダムは、著書『中国の科学と文明』の中で、たこは世界に広く伝わった中国の重要な科学発明の一つだと言い、「たこは人類の空を飛ぶ夢を引き出し、世界初の飛行機の発明を導いた」と記している。

伝統的な板式たこ

山東省はたこの発祥地で、濰坊はたこの主要な産地となっている。たこ揚げは濰坊人の伝統的な習俗で、人々が大好きなレジャーでもある。明の時代、濰県(濰坊の旧称)で県令を7年間務めた書画の名家鄭板橋は、当時の濰坊のたこ揚げのようすを詩に詠んでいる。「紙花は雪の如く滿天に飛び、嬌女は秋千して四圍を打つ。五色の羅裙、風に擺動し、好く蝴蝶の春帰に鬥うを將(以)てす。(紙の花が雪の如く空一面に飛び、美しい女性がブランコをあっちへぶらり、こっちへぶらりと漕いでいる。色とりどりの絹のスカートが風に揺れ、まるでチョウが春が来て飛びまわっているようだ)」

明・清時代の濰坊には、たこ作りに従事する専門職人が生まれた。史料によると、当時の濰県には、30あまりのたこ作りの工房や商店があった。清明節(4月上旬)に近くなると、楊家埠村の数十戸のたこ制作者が濰県の東の城壁の下に集まり、露店を出したという。その時には、花、鳥、虫、魚、人物、動物などが描かれたさまざまなたこが至るところに掛かり、たこを買い付けに各地からやってきた商人の往来が絶え間なく続いたという。濰坊市は古い手工業都市で、シルク、刺繍、銀を象眼した漆器、木版年画などが非常に有名であり、間もなくたこも全国に知られるようになり、北京・天津と肩を並べた。

1984年から、濰坊市では毎年国際たこ揚げ大会が行われ、自分のたこを持って大会に参加する各国の選手が年々増加している。1988年、濰坊市はたこ揚げ業界によって「世界のたこの都」に選ばれた。2006年5月、濰坊のたこ作り技術は第一陣の国家レベルの無形文化遺産にリストアップされた。

濰坊だこの種類とその発展

現代のたこはますます大きくなっている

濰坊だこの種類は非常に多く、絵柄と形によって、鳥類(タカ、ツバメなど)、昆虫類(トンボ、チョウなど)、水生動物(金魚、カニなど)、キャラクター(孫悟空、老人星など)、文字(喜の字を二つ横に並べたものや福の字など)、道具(扇子、灯籠など)、変わった形のものや幾何学形のもの(瓦形、八卦形など)などに分かれる。また構造によって、硬翼、柔翼、ラケット形、桶形などの種類に分かれる。さらにたこの大きさによって、超大型とミニ型のたこがある。例えば、濰坊の職人が作る「鯉が龍門を跳ぶ」たこは、二階建ての建物と同じ高さになり、面積も174平方メートルに及ぶ。超大型の龍頭ムカデだこの長さは2、300メートルに達する。一方ミニ型の龍頭ムカデだこの形は超大型と同じだが、マッチ箱に入るくらいの大きさである。たこのデザインは自然や社会生活、そして伝説中のイメージを模倣したもので、縁起のよさや理想が託されたものである。

以前はたこのほとんどが、農民が暇なときに、清明節や重陽節などの伝統的な祭りのために、現地にある材料で作ったものだった。したがって、たこの造型や材料、色の配置は濃い郷土色を持っていた。その後、たこを専門に売り買いする商人が出現し、たこ職人もこの機運に乗じて生まれた。そして、多くの画家がたこの絵付けと設計に参加したため、濰坊のたこにはすばらしい芸術品が生まれた。金も地位もある家からは、オーダーメイドの注文が入り、「7割は注文主の意見、残りの3割が職人のアイデア」ということわざの通りのものが生まれた。また、清代の末期に、一部の宮廷のたこ職人が民間に流れてきたことも、芸術的なたこの発展を促進した。こうして濰坊のたこは普通の玩具から、装飾品としても贈り物としてもふさわしい、価値のある工芸品となったのである。

たこ揚げ大会に参加する市民

濰坊駅の近くには、1万平方メートルあまりの建築面積を持つたこ卸売市場がある。ここは完全にたこの世界だ。ずらりと並んだ小さな店内の壁いっぱいにたこが掛かっているだけでなく、外の棚にもいろいろなたこが置かれ、どこもかしこもカラフルなたこだらけだ。「2010年末にこの市場が開業して以来、入居したたこ製造業者は80あまりにのぼり、たこの種類も300種類以上あります」と、濰坊たこ産業協会の康鵬秘書長が語った。彼によると、現在、たこは濰坊市における新しい産業で、国内外での需要が高く、市内に様々なたこ関係企業が2、300カ所ある。以前、たこ工場はそれぞれでやっていたため、集中的な管理ができず、生産レベルも不揃いで、高級なたこをどこで買うことができるかもはっきりしていなかった。卸売市場を開いた目的は、職人と市場、買い手と売り手とをつなぐ橋を架け、濰坊の高級だこの製作を促すことだ。「この市場のおかげで、たこを買うとき、あちこち探し回る必要がなくなりました」と、たこを仕入れに来た張さんは語る。彼は黒龍江省からやって来ており、長い間、濰坊のたこの販売に従事している。卸売市場がなかった時には、毎年、彼は一つひとつ濰坊市のたこ工場を訪れ、たこの見本を見ていたため、いつも1週間ぐらいかかっていたが、今では、たった1日で全部買い終えることができる。

韓氏の龍頭ムカデだこ

ある普通のアパートで、有名なたこ作り名人の韓福齢さんと会った。小さな客間には、壁一面に韓さんが手作りしたたこが掛けてあり、ガラスの戸棚にはさまざまなトロフィーや表彰メダル、証明書が所狭しと並んでいる。彼が作った龍頭ムカデだこは、たこ業界で「韓氏ムカデ」と呼ばれている。濰坊国際たこ揚げ大会が開催されて以来、韓さんの作品は毎回受賞しており、また国内外のたこ揚げ大会でも数回優勝しているという。

韓福齢さんは1934年に生まれ、今年78歳になるが、まだ背中はしゃきっとしている。10年近く、長年の病に悩まされている妻の面倒を見る一方、たこの手作りを続けている。たこの話に及ぶと、韓さんは非常に興奮し、話が止まらなくなった。濰県の東関に生まれ、小さい頃からたこが好きで、7歳のときに自分で八卦だこを作り、揚げたという。

韓福齢さんと彼が作った龍頭だこ

小学4年生の頃、韓さんの父親が病気で亡くなった。生活はたちまち困窮し、彼は退学して街頭で巻きタバコを売って生計を立てるようになった。彼の隣には粉タバコ屋台があり、ここの主人は暇があるとたこを作っていた。この人こそ、たこ作り名人の胡景珠(1895~1967年)さんで、韓さんにとって、これが「災い転じて福となった」。彼は胡先生のたこ作りを常に傍らで見ていて、たこ揚げを手伝った。先生の得意技は龍頭ムカデだこの制作で、何本かの竹ヒゴをちょこちょこっといじっただけで、生き生きとした龍頭ができあがった。韓さんはそれが大のお気に入りで、家に帰ると見よう見まねで自分でそれを作ってみて、とうとう人生で初めての龍頭ムカデだこを作り出した。それを見た胡先生は非常に喜んで、そのたこを調整してやり、彼を白浪河の川岸に連れていって、たこを引いて走ったり跳ねたりして追い風に乗せ、この30節の連だこは見事に天に揚がった。このときから、韓さんは胡先生の唯一の弟子となった。彼が15歳のときのことである。

龍頭ムカデだこは連だこに属し、頭、胴体、尾という三つの部分に分けられる。胴体が本体で、幾つかの円形のたこが連なっていて、真ん中に糸を通して繋いでいる。その最大の利点は、完全に伸びると数百メートルという長さになるのに、折り畳むと非常に小さく場所をとらず、さらに300メートルのムカデだこでもわずか数㌔の重さしかないことだ。ただ、龍頭部分は立体的なので構造が複雑で、技術の難しさから言えば、伝統だこの中で一番だと言える。

韓さんはのちに組合で広報活動の仕事をしたが、ずっと余暇を利用してたこを作っていた。数十年が過ぎ、韓さんは師匠の経験を踏まえた上に、他人の長所を取り入れ、その技を絶えず向上させていった。彼は作ったたこを売ったことがない。たこ作りは非常に厳しいもので、売るために作ったならば、それほど工夫を凝らさなくなると、考えているからだ。たこを作る時、まず先に細かいところまで考えてから、図面を引いて、ようやく制作を始める。制作途中で何度も修正を加え、よりよいものを作ろうとする。彼はまた龍頭の目が飛行中に絶えず動くように改良を加えた。置いたときには、目は前方を見据えており、やさしいおだやかな表情となる。

韓福齢さんは心の暖かい、温厚な人だが、その技は革新的だ。彼の家にはよくたこ作りを教わりに人がやって来て、たこ作りの技をお互いに切磋琢磨する。誰が聞いても、彼は自分の経験を一部始終教え、また教えてもらう人のたこの欠陥とクセをずばりと指摘する。韓さんの弟子には5、6人の成功者がいるが、その中の一人、江西省出身の陳金根さんは、1980年代に新聞で韓さんを紹介する記事を見た後たこ作りに興味を持ち、彼に長い手紙を書き、教えを請うた。韓さんは直ちに返信し、詳しい図面を引いて送った。陳さんはその図面に従って最初のたこを作り出した。現在、彼は江西省たこ協会の理事となり、その作品は何度も濰坊国際たこ揚げ大会で賞を勝ち取っている。

 

人民中国インターネット版 2012年7月

 

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