広西チワン族自治区河池市 神聖なる銅鼓の音とカエルを崇める人々
◆カエル崇拝とカエル祭り
広西民族博物館は、中国において銅鼓が最も多く収蔵されている博物館である。世界中に伝わってきた銅鼓は、8種類に大別できると広西民族博物館の黄館長は熱心に説明してくれた。その8種とは、万家壩型、石寨山型、冷水沖型、遵義型、麻江型、北流型、霊山型、西盟型で、冷水沖型とは、広西チワン族自治区藤県の冷水沖で出土したため、その名が付けられたものである。1~12世紀に盛んに作られたこの銅鼓は高く大きく、多彩な紋様があり、表面に彫刻されたカエルの模様が最大の特徴となっている。チワン族は螞拐節といわれる祭りを行う習俗があるが、螞拐というのは銅鼓の表面にも描かれているカエルのことである。
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白裤ヤオ族は銅鼓を主に葬式の時に使用する。銅鼓を桶と一緒に使うと低く厚みのある音が出て、非常に効果的である |
この螞拐節、つまりカエル祭りの由来については、いろいろな説がある。たとえば天峨県の納洞村の伝説によると、あるおじいさんが一匹のカエルを飼っていたが、49日後にカエルはハンサムな青年に変身し、おじいさんは彼に「龍王宝」という名を付けた。その青年は神秘的な力を持ち、彼の行くところどこでも、稲が病気にかかることなく、すくすくと育った。ある年、異民族の軍隊が侵入し、皇帝は詔を下し、敵を退散させた者に皇女を嫁がせると約束した。そこで、龍王宝はそれに応じて、神通力で敵を撃退して、皇女の夫となった。しかし、皇女は彼がいつも羽織っている螞拐衣を目障りに感じ、彼が熟睡している時に、こっそりとその螞拐衣を火に投じ、燃やしてしまった。しかし実はこの螞拐衣こそが龍王宝の実体であり、衣とともに彼も焼死してしまったのである。皇帝は彼を記念するために、全国に三日三晩弔いをするように命じた。そして、この習慣は毎年受け継がれていったという。
納洞村は天峨県の県庁所在地から14㌔のところにあり、旧暦の正月1日から2月の初め頃までの1カ月間ほど、「カエル祭り」を行う習俗がある。この時には、「カエル探し」「カエル埋葬」「村のパレード」「カエル踊り」など14の行事が行われる。
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カエルのこしを担いで練り歩く |
旧暦の正月1日の夜明けになると、人々は銅鼓を叩きながら、一団となって水田にカエルを探しに行く。真っ先に見つけた人がその年のカエル祭りのリーダーになる。そのカエルは石棺に閉じ込められ、飾りのついたこしに乗せられ、村に運ばれる。一日から月末まで、昼間、子どもたちはカエルを乗せたこしを担いで村を練り歩き、各戸に祝福を届ける。夜になると、カエル亭でお香を焚いたり、カエルの歌を歌いながら、カエルのお通夜をする。25日後、よい時間を選んで、こしをカエルの墓まで担いで行き、昨年にカエルを埋葬したお棺を開く。カエルの骨が金色であると今年は豊作だが、濃い灰色だと作柄が悪いことを示している。その場合には、人々はお香を焚いて災いを除き、福が天から下ってくることを祈る。その後に今年のカエルの埋葬式が行われ、人々は老若男女問わず銅鼓を叩いたりチャルメラを吹いたりしながら、たいまつを持って火の龍のように村中を回る。
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カエル誕生踊り |
翌日、人々はカエル踊りをして、祭りを盛り上げる。まだ日も明けやらぬうちから、村民は四方八方から約2000平方㍍ほどの水田に集まってくる。カエル踊りは皮鼓踊り、カエル踊り、毛人踊り、魔よけ踊り、カエルを拝む踊り、銅鼓を拝む踊り、谷間の田んぼ踊り、田植え踊り、出漁踊り、紡績踊り、豊作を祈ってカエルを拝む踊りといった11の部分からなる。この中でもカエルは圧倒的な主役だ。また、カエル誕生踊り、カエルと疫病神の戦いの踊りは稲作民族の、カエルと生殖への崇拝を象徴しているといえる。
◆銅鼓の鋳造技術
専門家によると、河池銅鼓は数百年から千年もの間ずっと使われてきたため、今ではかなり傷みがひどくなっている。唯一の解決方法は新しい銅鼓を鋳造して、傷んだ古い銅鼓に取って代えることで、それによって、文化財を守りながら伝統を守ることができる。しかし、民間における銅鼓鋳造は清代から行われなくなっており、豊富な銅鼓文献の中でも、その製造に関する記録はきわめて少ない。1982年、広西チワン族自治区博物館、雲南省博物館、北京鋼鉄学院(現北京科技大学)冶金史研究室が協力して、8種類92台の銅鼓についてサンプリングし、分析を行い、古代銅鼓は銅、鉛、錫など金属の合金が材料とされており、その主な鋳造法は泥型合範法(泥でつくった模型から二つの部分に分かれた鋳型を取り、鋳造後二つを合体させる)と失蝋法(蝋でつくった模型から鋳型を作り、後に蝋を熱して溶かして除去し、そこに金属の溶解液を注ぐ)であることを突き止めた。現在、河池一帯で見られる銅鼓は主に麻江型のもので、ほとんどがこの十数年の間に、専門家と職人の研究と実験を経て、現代技術によって鋳造されたものである。材料や音質などに多少の問題もあるが、ちょっと見たところでは昔の物と見分けがつかない。
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乗騎飾変形羽人紋銅鼓 後漢(25~220年)のもので、1975年に広西藤県冷水沖から出土した冷水沖型の銅鼓。広西民俗博物館蔵 |
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工場の主人、羅明金(右)と彼の息子、息子の嫁、娘、娘婿 |
東蘭県の県庁所在地から11㌔離れたある銅鼓鋳造工場に行ってみた。新築の工場の中で行われている、鋳型作りから金属溶解液の注ぎ込み、磨きまで、鋳造における作業はすべて手作業で、機械設備はあまりない。工場長の羅明金さん(50)のほかに、彼の妻、息子、息子の嫁、娘、娘婿がここで働いており、典型的な家族工房だ。1997年から銅鼓鋳造を始め、いまやここの製品は銅鼓を使う民族に広く知られるようになり、大量の注文が寄せられている。現在、この工場では、普通の銅鼓では50㌔の銅で2個、1日に5、6個が作られる。小さめのものは50㌔の銅で4個、1日に15、6個が作られる。羅さんによると、今の鋳造技術が確立できたのは、羅開先(77)師匠の指導のおかげだという。羅開先さんの父親も祖父もみな、鋳造にかかわっていた職人だった。羅工場長によれば、銅鼓の形を作るのは難しくないが、優れた音質のものを作るのは難しい。工場の一角には、たくさんの銅鼓が掛けられている棚がある。羅さんとその息子たちが手にバチを持ち、これを叩いてくれた。4台一組のこの銅鼓の、高音と低音のアンサンブルが、とても心地よく耳に響いた。
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