リスクテイカーの彼女
山梨真敬
一昨年の8月、上海、大世界駅近くの夜の屋台街。コンクリートの地面には日中の太陽の熱が残っており、屋台から漂う湯気と、行き交う人の熱で、一帯は蒸し上げるような暑さに包まれていました。ザリガニの身はどこまで吸えばいいのか、何匹食べても「まだ残っている、もったいない」と注意を受ける。彼女と私は、両手にビニール手袋をつけ、黙々とザリガニの皮をむき続けていました。ぷりぷりのザリガニの身は、絶妙な味付けでピリ辛に炒められ、ビールで流し込む勢いは止まりません。
私たちの出会いは、私の大学最後の年でした。仕事で中国と日本を行き来する中国人の彼女と、東京に住んでいた私とは、共通の知人を介して知り合いました。物理的に離れた距離で暮らす二人ではありましたが、次第に打ち解け、彼女の日本滞在時には必ず二人で会うような仲になりました。私が大学を卒業して地方に越した後も、会える頻度こそは落ちてしまいましたが、長い休みを利用してお互いの居所に遊びに行くことを続けていました。
山盛りのザリガニが半分くらいに減ったころ、ふと彼女は話し始めました。「私ね、今の仕事辞めて、日本でお菓子の勉強をしようと考えているの」突然の告白に私は驚かされました。大学を卒業して3年間続けていた仕事を辞めて、パティシエになるため日本の製菓学校に通いたいという。
彼女が仕事を辞めるということは、全く予期せぬことでした。上海で働く中国人の平均を上回る待遇、国と国とを行き来し、周りからも憧れられるような仕事内容。そして、はたから見ても彼女の生活水準は同年代の中では高いものであると言えます。無駄遣いさえしなければ大抵の好きなものは買えるし、貯金をすれば海外旅行にだって行ける。目の前にある安定性を捨ててまで、どれだけ継続するかわからない一時の興味を追いかけることは、正しい選択なのだろうか、仕事を辞め環境を変え今まで全く経験のない世界でチャレンジしていくことは、どれくらいリスクの伴うことなのかと、私は彼女の決断を受け止めることができませんでした。しかし、それでも彼女は今の仕事を続けていく気はないと言います。
何が彼女をこんなにも駆り立てているのでしょうか。彼女はまっすぐこちらを見て言いました。「自分の中で芽生えてきた、新しいことをやってみたいという気持ちを潰したくないの。そのためだったら、今の仕事を辞めることに何の躊躇もない。ほんの少しでもやりたいと思ったことにはすぐに飛びつきたい。自分の欲求は少しずつ変わっていくものだし、他にもっとやりたいことがあるのに、嫌々今の仕事を続けていくことの方がよっぽどリスクがあると思うの。」
中国と日本では、若者を取り巻く環境に違いがあると思います。私の周りの同年代の人達の間では、「安定」という言葉が声高に語られ、それに囲まれ、私自身も何かをやってみたいという自分の気持ちに鈍感になっていました。そのような中、自分の欲求にしっかり目を向け行動を起こしていく彼女の姿勢は、私の目に非常に魅力的に映りました。
ザリガニの告白から、ちょうど二年が経ちました。あの夜の後、彼女はすぐに日本に引っ越してきました。そして、パティシエになるという目標のため現在も日々勉強を続けています。水回りや脂を触る仕事で彼女の手はカサカサになっていますが、自分の欲求に従うまっすぐな彼女の眼は、近い将来の成功をしっかりと見据えているのだと思います。