五台山を後にする

 

五台山を去る直前に、円仁は五色の彩雲の奇瑞を見た。彩雲は光輝いていて、その色は特に美しく天空に流れ、山の頂に達した。そのとき円仁と一緒に1人の托鉢僧が立っていた。彼は五台山に住み、信者から供物を集めて五台山のすべての寺に届ける世話をしていた。彼は涙を流して、円仁にこう言った。

 

五台山の五色の彩雲

金閣寺



 

「私は長年にわたり、毎年必ず供物を五台山の全部の寺に届けてまいりましたが、いままでただの一度もこのような奇瑞を見たことがありませんでした。いま異国の高僧と共に光り輝く彩雲を見ました。それぞれ生まれたところは異なっていても、文殊菩薩の同じ縁に結ばれているということが、本当に深く分かりました」

 

1986年、私もまた東台から眺める夜明けの空に、衝撃的な光の輝きを見た。それもやはり5色の彩雲であった。そのとき私と一緒にいたのは2人の中国人、尼僧妙禅と僧妙灯である。2人とも菩化寺の著名な仏教医学僧蔵明の弟子であった。この体験は私に、円仁日記にあった前述の僧の「同じ縁に結ばれている」という言葉をよみがえらせた。この美しい彩雲を奇跡の瑞兆と見なすか見なさないかは、まったく個々人の解釈の問題であろう。私の場合、中国で円仁の巡礼行路を探索し、たどろうという考えがひらめき、確信となったのは、ほかでもないこの得がたい体験によるものであった。

 

840年旧暦7月1日、円仁は唐の都長安へ向けて一歩を踏み出した。まず五台山聖域の南端にある金閣寺に到着し、ここに2日間宿泊した。日記には、この寺にある仏教宝物についての詳細な記述が延々と続いている。なかでも、金閣大壇にあるすべての法具について特筆している。

 

円仁はまた、仏陀の遺物や石に刻まれた仏足図に驚嘆した。さらに、820年頃に日本の僧霊仙がこの地にやってきて、この寺に2年間逗留したことを知って非常に喜んでいる。日本からの参拝者たちがたびたびこの寺を訪れ、日本の土を2度と踏むことのなかった霊仙を追悼して、新しい様式の石碑を寄進した。石碑は現在、寺の庭に立っている。円仁は、やがて霊仙の足跡を求めて南に向かった。

 

私も霊仙の足跡を求めて、円仁と同じ道をたどろうとしていた。しかし、霊仙がいたという霊境寺遺跡を探しながら少軍梁村の道を通り抜けているときには、何に出くわすのか見当もつかなかった。道は川床からはるかに高く、山中に入っていった。あちこちで路上の羊飼いやバイクに乗った人たちに教えられながら、私はごくおおざっぱな方向感覚を頼りに、ぐるぐると山道を曲がりくねって21キロばかり進んだ。

 

少軍梁村の道

少軍梁村の子どもたち

霊境村の農婦



 

ここから裏道を抜けて南台に向かう人のほかには、この村を訪れる者はほとんどいない。

 

霊境村は南台の陰の深い谷間にある。私は、たきぎ用の木切れを拾っている農婦に「ここに日本人が来たことがあるのを知っていますか」と聞いてみた。最初私は、彼女がしゃべっているのは、さきの日中戦争のときの話だと思った。ところが、彼女の訛りの強い言葉をよく聞いて分かったのは、遠くにある寺は、大昔の交流によって日本人に特別の意味があることを、実は彼女がよく知っていたことである。

 

「行って仏様にお祈りし、お坊様に尋ねてみなさるといい。新しい塔もありますよ!」と彼女は言葉を結んだ。この言葉に励まされて、私はさらに進み、行く手の道沿いにある寺を探し当てた。

 

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