今でも霊境村は石の壁に囲まれている。石を踏み固めた小道が、長い年月風雨にさらされた村の門へと続いていた。

|
霊境村の門
|
円仁は荒れ果てた霊境寺にたどり着いたが、霊仙がすでに825年に死去したこと、しかも噂によれば毒殺されたらしいことを知って、嘆き悲しんだ。渤海から霊仙を訪ねてきた1人の僧が、霊仙の死を悼んで書いた長詩が釘で壁に打ち付けられているのを、円仁は見た。現在の法雨和尚は、1996年以来この寺に住んでおられる。
著者は2002年、霊境寺住職法雨和尚(58歳)にお会いした。最も興味深かったのは、霊仙は毒殺されたのではないという話であった。「第1に、僧殺害はあり得ない罪です」と、法雨和尚は詳しく説明してくれた。「第2に、日本人寄進者たちが建てた新しい供養塔に改めて埋葬するために、霊仙の骨壷を取り出してみたところ、中に入っていたのは白い遺骨でした。噂のように毒殺されたのなら、遺骨は黒くなっていたはずです」と、彼は力説した。(阿南・ヴァージニア・史代=文・写真 小池 晴子=訳)
 |
|
|
阿南・ヴァージニア・史代 米国に生まれ、日本国籍取得。10年にわたって円仁の足跡を追跡調査、今日の中国において発見したものを写真に収録した。これらの経験を著書『「円仁日記」再探、唐代の足跡を辿る』(中国国際出版社、2007年)にまとめた。
|
|
|
人民中国インターネット版
|