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中国―日本 友好の絆② 天津

張春侠=文 劉世昭=写真

1973年6月24日、周恩来総理の配慮のもと、天津と神戸の間で調印が行われ、中日間で最初の友好都市が誕生した。これは、中国にとって外国との間で締結された最初の友好都市でもあった。30年来、二つの都市は政治、経済、貿易、環境保護などさまざまな分野で広く交流や協力を行って大きな成果を収め、中日友好都市交流の模範になってきた。

周総理が結んだ神戸との縁

「天津と神戸は周恩来総理の深い配慮を受け、友好都市関係を結びました」と振り返る天津市人民対外友好協会の劉鳳嵩副会長の口調は実になめらかで、言葉の端々から彼がこれを大きな誇りに感じているのが分かる。

世界クラスの港湾に名を連ねる天津港(写真提供・天津港)

1972年、神戸市の宮崎辰雄市長は日中友好青少年水泳代表団を率いて中日水泳大会に参加した。この時、周恩来総理と会見した宮崎市長は、中国の港湾都市と姉妹都市関係を締結したい旨を伝えた。すると、周総理は言下に天津を推薦し、「友好都市」という名称も提案した。「若き日の周総理が、日本留学からの帰国ルートとして選んだのが、まさに神戸から天津への航路だったのです。周総理は、天津に対して特別な感情を持っています」と劉副会長は話す。こうして、翌73年の6月24日、宮崎市長は神戸市友好代表団を率いて天津を訪問し、「天津市—神戸市友好都市関係締結議定書」に調印、両市は中日両国初の友好都市となった。

その後、両市は友好交流を深めてきた。劉副会長によれば「両市はこの成果を非常に大切にしており、5年、10年ごとに友好都市締結記念活動を行ってきました。同時に、経済、貿易、環境保護、教育などの分野での交流と協力も絶えず強化してきたのです」という。

1973年6月24日、天津市と神戸市は友好関係を締結したが、この時「友好都市」という名称を提案したのは周恩来総理だった。当日、天津市は盛大な会を催し、天津を訪問した神戸市の友好代表団を歓迎した(新華社)

神戸・天津経済貿易連絡事務所の林田亨所長は2011年4月に着任したばかりだ。十代目の所長として、40歳の彼が一万人の候補者の中から選ばれたのだ。初めてこれを聞いた時、中国を訪れたことがなかったため驚いたが、同時に非常に幸運だとも感じた。それ以前、彼は神戸と天津が友好都市だという事実以外の知識はまったくなく、任命された後で関係資料を調べ始めたのだった。林田所長は「赴任してきて、天津がとても美しくて、人々も非常に親切なのを知りました! 13年は神戸と天津の友好都市関係締結40周年です。私たちは35周年の基礎の上に、さらに素晴らしい記念イベントを行えるはずです」と自信を見せる。同事務所の呉易舒副所長は1987年からここで勤務し、両市間の多くの交流に参加してきた。彼は99年に神戸建設局安藤嘉茂局長が天津を訪問した時に、「すべての友好都市が神戸と天津と同じような関係になれば、中日両国が再び戦火を交えることはないでしょう」としみじみと語ったことを、今でも覚えている。

天津市は神戸市に続いて、4日市市、千葉市とそれぞれ友好都市関係を締結した。中日間初の友好都市の導きのもと、両国間の友好都市数は増え続け、2011年8月までに245組を数えるまでになった。

天津港の飛躍を神戸が支援

天津市内から一時間ほど車を走らせると、渤海湾に注ぐ海河の河口にある天津港に到着する。紺碧の空と海の間に、陸地面積107平方㌔と巨大で活気に満ちた天津港が見える。そこからは、1952年に再建された時、この港の陸地面積が現在の百分の一以下の一平方㌔にも満たなかったことを想像するのは難しい。

1985年5月、天津食品街に開店した神戸レストラン。 現在は所在地が変わったが、相変わらず市民の人気を集めている

天津市と神戸市は地理などの環境がよく似ており、両市とも工業港湾都市という特色を持つ。さらにおもしろいことに、天津という地名は「天子が河を渡った場所」という意味を持ち、一方神戸は「神の封戸」の意味だ。しかも、天津港と神戸港はともに海を埋めて造った人造港で、1860年代に外国に迫られて開港した点も共通している。1980年、天津港と神戸港は友好港の関係を締結し、その時からさまざまな交流と協力を行ってきた。

84年、10年前には千万㌧未満だった天津港の貨物取扱量は2000万㌧近くまで急増したが、港湾設備の不足が深刻で、多くの貨物がヤードや船上に手付かずのまま置かれていた。外国船が入港しても、荷下ろしに半月、ひどい時は一カ月もかかったほどだ。

当時の李瑞環市長は国際的な大規模港である神戸に援助を求め、神戸市港湾局の鳥居幸雄局長を天津港の最高顧問に迎えた。同年4月16日、鳥居局長は顧問団一行9人を率いて天津を訪れた。彼らはふ頭、貨物ヤード、倉庫、停泊地などの現場の測量、視察を行い実際の情況把握に務めた。4年後、顧問団は「天津港緊急改造案」と「天津港長期改造案」を提出し、すべて採用された。双方の努力により、天津港の貨物取扱問題は効果的に解決された。90年3月、天津と神戸の間に初の定期貨客船――「燕京号」が就航した。これによって天津は国際旅客航路を持たない時代に終止符を打つことになった。

2011年上半期、天津港は神戸から20フィートコンテナ換算で10万200個分の貨物を輸入した

現在、天津港は日本、韓国などの12の港湾と友好港関係を締結し、180余の国の500余の港湾と貿易の往来がある。天津港(集団)有限公司宣伝部の周純光副部長は「52年、天津港の貨物取扱量は74万㌧に過ぎませんでしたが、今では4億㌧を超えています。2011年上半期、天津港は日本から20フィートコンテナ換算で12万5800個の輸入貨物を取り扱いましたが、そのうち神戸からのものは10万200個に達しています」と説明している。

 

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