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北京市 乾隆帝の重農 思想と江南への憧憬

 

内水操学堂の中庭の中には、かつて慈禧太后が昆明湖で遊んだ小型汽船が陳列されている
 澄鮮堂から北へ向かうと、L字型の回廊があり、延賞斎は東西に走る回廊の真ん中にある。ここは当時皇帝が読書をしたり、お茶を楽しんだり、景色を眺めたりする書斎であった。現在の室内は、清の嘉慶12年(1807年)ころの再現である。大広間の玉座の後ろの屏風には、乾隆帝の筆跡による8首の風景詩が彫られており、詩には乾隆帝が広源閘(水門)から船に乗り、清蔬園の「耕織図」を経て玉泉山にいたる船遊びの際に眺められる風景が詠まれている。東側の部屋にはオンドルの焚き口に近いところに香炉を置く机が置かれ、西側の書斎には茶卓が置かれ……という具合に、当時の皇帝がここでのんびりとすごした生活の情景が描かれている。

 

訪れる観光客がのんびりと楽しめる玉河斎
かつて乾隆帝が玉泉山への船遊びの途中でひと休みした船着き場のひとつ·澄鮮堂
後山風景区の中にあるチベット仏教寺院の四大部洲


乾隆帝自筆の『耕織図』石碑は耕織図建造当時から唯一残っているものである
 延賞斎の両側の廊下の壁には、48枚の『耕織図』の石刻がはめ込まれている。乾隆34年(1769年)、乾隆帝は仔細にわたって照らし合わせ、研究を重ねた結果、宮中に所蔵されている21枚の『耕作図』と24枚の『蚕織図』は、いずれも元代の画家程ケイが南宋の画家の作品を模写したものであることを発見した。そして、同じように模写された2枚の題辞と跋(前書きと後書き)に乾隆帝自ら題字を加えたものをあわせた計48枚を、職人に命じて縁取りをした双鈎字(かご字)で石に刻ませた。すべての石を刻む作業は、3年がかりでようやく完成した。乾隆帝は当時、これを重大な事業と位置づけ、貴族や大臣たちを集め、盛大な茶宴を設け即興の聯句(幾人かが一句ずつ作ったものを集めて一編の詩とする)を詠ませた。1860年に「三山五園」が英仏連合軍により焼き討ちされ、略奪されたそのとき、この石刻も壊滅的な被害をこうむり、ほとんどが失われてしまった。しかし、かろうじて残った23枚は幾多の紆余曲折を経て、最終的に中国国家博物館に収められるにいたっている。現在回廊の壁にはめ込まれている石刻は、精巧な複製品である。

 

後山風景区の中にある江南の水郷を模して作られた蘇州街
 蚕神廟は延賞斎の西側にあり、寺の中には黄帝の元妃で西陵氏の娘の賻祖、すなわち蚕神の位牌が祀られている。かつて、毎年9月には清政府の織染局はここで祭祀活動をおこなった。現在、ここは中国で唯一、清代の皇室が蚕神の祭祀活動を行った場所を再現したところとなっている。

 

耕織図の主な建築は、延賞斎(中)、玉河斎(右)と『耕織図』石刻回廊である
 乾隆帝の建造した清蔬園は、園林の構造、建築の様式から、風致ポイントの設置、対聯や扁額の内容まで、彼の統治思想を体現していないものはない。万寿山、昆明湖といった大きな山や広大な湖の構造は、彼の皇帝としての心の大きさや闊達さをあらわしている。「耕織図」は乾隆帝が農業や養蚕を立国の本とした思想をあらわしている。西堤に岳陽楼を模して景明楼が建てられているのは、彼の提唱した「物を以て喜ぶことなかれ、己を以て悲しむことなかれ。廟堂の高きに居らば、民を憂い、江湖の遠きに処かば、君主(国家)を憂う」という臣下の憂いおよび「天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」という君子の喜びをあらわしている。また、後山風景区にある美しい蘇州街と荒々しいチベット仏教の寺院の建築群「四大部洲」の結合は、天下統一という皇帝の意志を体現している。

 

西堤には湖南省岳陽楼を模して建てられた景明楼がある
 「耕織図」風景区の再建によって、世界文化遺産としての頤和園全体の景観が、250年前に作られた当時の完全な版図として復元され、頤和園全体の造園思想と世界文化遺産の完全性をパーフェクトに体現している。  (劉世昭=文・写真)

 

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