河北省・武安市 農村の鬼払い祭り――「打黄鬼」
魯忠民=文・写真
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舞台用の衣装をつけている人は、いつでも隊列の中で際立って人目を引く |
打黄鬼は「儺(おにやらい)」の一種である。儺とは、古代中国に始まった神を迎え悪鬼を追い払う原始宗教の儀式であり、日本では「追儺」とも呼ばれる。自然災害を解釈できず、抵抗することもできなかった人間が、超自然的な神霊が存在すると信じたことから、神や鬼という観念が生まれた。また、神と鬼は善と悪に分けられた。大昔から、国家の「宮廷儺」「軍儺」および民間の「郷儺」は、毎年数回大規模な祭りを行い、鬼を追い払い邪気を鎮めた。時代の変遷にともなって、儺の活動は単に神を楽しませ鬼を追い払うものから、神だけでなく人をも楽しませる内容のものへと変わっていった。娯楽の要素が増える一方で、いつしか神を楽しませるという本来の目的を次第に忘れてしまったのである。
ここ数年、儺文化の遺物たる打黄鬼が、その昔ながらの様式と豊富な内容で専門家や学者に重視されるようになった。2006年、「打黄鬼」は中国最初の国家レベルの無形文化遺産リストに登録された。
歴史ある村――固義村
固義は武安市南西部、太行山脈以南の山間地帯にある村である。現在、700戸以上、2700人余りが暮らしている。村人の大部分は農業に従事しているが、鉱山や炭坑の採掘をする人もいれば、出稼ぎに行ったり商売したりしている人もいる。人目を引く村の閣楼は、もともとは6棟あったものの、現在残っているのは4棟のみ。城壁で囲まれた小さな町にある屋根つきの正門と似た楼閣で、櫓と門洞(家屋のひと間を表門にあてた出入り口の通路)がある。かつては夜になると正門を閉めることで、村全体を閉ざした。もちろん、本来防備のために建てられたものである。村には、東西に大通りが2本走っている。そのうちの一本は古代に山東、河北、山西を結んだ大通りで、かつて道の両側には少なからぬ宿場や料理屋、商店などが並んでいた。
固義儺戯に使われる仮面は3、40枚ある。すべて紙パルプで塗り固めたもの
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並外れた腕前を披露する高足踊りの少年 |
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大鬼の隈取り。隈取りはすべて伝承されてきたもので、メーキャップをしている師匠は第5代の継承者になる |
固義の村人たちにとって、「黄鬼」は邪悪の象徴である。たびたび氾濫した洪水も、疫病や結核もすべて、黄鬼が災いしていると考える。黄鬼は特に両親を虐待する親不孝をも指し、オーソドックスな儒家学説が郷儺に浸透していることを反映している。鬼を追い払い邪気を鎮めるという打黄鬼のプロセスは、人そのものを正し、道徳行為を導くものでもあるのだ。
村中総動員の「打黄鬼」
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夜間の鬼払いからずっと、街中を交代で見回りをする威風堂々たる「探馬」 |
旧暦正月14日の夜には、ほとんどの村人は夜通し寝ずの準備に忙しい。李氏祠堂では、顔に隈取りをほどこしたり、仮面をかぶったり、舞台用の服装を試したり、道具を整えたりしながらひっきりなしに出入りする村人たちで賑わっている。
固義村の打黄鬼は、2、3年おきに一度、固義所轄内の4つの村の「社首」のもとに行われる。社首は村の最初の25戸から選ばれ、一戸から一人ずつが世襲で担当する。5人の社首を一組として5組とし、祭りのたびに、ある社首組が資金を集め、活動を組織する役を買って出る。ほかの社首も彼らに協力する。
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高い台の上にあがっているのは「七品芝麻官(もっとも下っ端の役人)」に扮した人 |
祭りや公演に参加したり、手伝いをしたりする人々はみな代々世襲である。父が息子に伝え、息子がなければ女婿や甥に伝え、派遣や選出などは行わない。前の年の旧暦10月の上旬から翌年の正月13日まで、祭りの下稽古と準備はずっと続く。役者組、篷台(テントや舞台)組、棍棒組、煙火組、騾馬組など、それぞれどこかの家が責任を負う。それぞれの家の人々は各自の仕事をよく理解しており、すべては段取りを踏み、秩序立てて進められる。