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河北省・武安市 農村の鬼払い祭り――「打黄鬼」

 

魯忠民=文・写真

舞台用の衣装をつけている人は、いつでも隊列の中で際立って人目を引く
 「打黄鬼」は、数百年の歴史を持つ河北省武安市固義村の民俗祭りである。旧暦正月14日の「神迎え」から始まり、「邪気払い」「鬼払い」「街中引き回し」「裁き」「鬼殺し」など一連の儀式、さらにその途中には隊戯、顔戯、賽戯などからなる「伝統劇」や、花車、模型の船を腰に結びつけて歌いながら踊るパオ旱船、武術、ヤンコ踊り、獅子舞など民間芸能を披露する「花会」などが行われ、祭りは3日間に及ぶ。

 

 打黄鬼は「儺(おにやらい)」の一種である。儺とは、古代中国に始まった神を迎え悪鬼を追い払う原始宗教の儀式であり、日本では「追儺」とも呼ばれる。自然災害を解釈できず、抵抗することもできなかった人間が、超自然的な神霊が存在すると信じたことから、神や鬼という観念が生まれた。また、神と鬼は善と悪に分けられた。大昔から、国家の「宮廷儺」「軍儺」および民間の「郷儺」は、毎年数回大規模な祭りを行い、鬼を追い払い邪気を鎮めた。時代の変遷にともなって、儺の活動は単に神を楽しませ鬼を追い払うものから、神だけでなく人をも楽しませる内容のものへと変わっていった。娯楽の要素が増える一方で、いつしか神を楽しませるという本来の目的を次第に忘れてしまったのである。

 

 ここ数年、儺文化の遺物たる打黄鬼が、その昔ながらの様式と豊富な内容で専門家や学者に重視されるようになった。2006年、「打黄鬼」は中国最初の国家レベルの無形文化遺産リストに登録された。

 

歴史ある村――固義村

 

固義儺戯に使われる仮面は340枚ある。すべて紙パルプで塗り固めたもの
 固義は武安市南西部、太行山脈以南の山間地帯にある村である。現在、700戸以上、2700人余りが暮らしている。村人の大部分は農業に従事しているが、鉱山や炭坑の採掘をする人もいれば、出稼ぎに行ったり商売したりしている人もいる。人目を引く村の閣楼は、もともとは6棟あったものの、現在残っているのは4棟のみ。城壁で囲まれた小さな町にある屋根つきの正門と似た楼閣で、櫓と門洞(家屋のひと間を表門にあてた出入り口の通路)がある。かつては夜になると正門を閉めることで、村全体を閉ざした。もちろん、本来防備のために建てられたものである。村には、東西に大通りが2本走っている。そのうちの一本は古代に山東、河北、山西を結んだ大通りで、かつて道の両側には少なからぬ宿場や料理屋、商店などが並んでいた。

 

並外れた腕前を披露する高足踊りの少年
  打黄鬼の由来について、村にこんな言い伝えがある。2000年前、春秋時代(紀元前770~同476年)のこと。晋国を遊歴していた秦国の十三太子が、街で悪事を働くごろつきに出くわした。十三太子は怒りを抑えきれず、そのごろつきをうっかり殴り殺してしまった。晋兵の追跡を逃れるため、現在の河北ケイ台のある村に逃げ込んだ太子は、村人たちが仮面をかぶり、色鮮やかな服装で踊って楽しむ姿を目にした。自分が追われている理由を説明すると、村人たちは彼にも仮面をかぶせ、色鮮やかな服を着せ、踊りの隊列に紛れ込ませて晋兵の追跡をかわした。その後、固義村の南にある雀娥山にやって来た太子は、大病を患ってしまう。しかし、医者を呼んで治療してくれた村人たちのおかげで、彼はすっかり元気になった。十三太子は命の恩人である2つの村の人々に恩返しをしようと、多くの善行を重ねた。やがて、固義の人々は彼の彫像を作って雀娥山のふもとにある廟に祀り、「白眉三郎」と名付けた。毎年の旧暦正月14日の午前中に行う神迎えは、太子の神像を前街の小さな廟に迎えることである。

 

大鬼の隈取り。隈取りはすべて伝承されてきたもので、メーキャップをしている師匠は第5代の継承者になる

  また別の言い伝えもある。記載によれば、明朝の中ごろ、商売で蔚県を訪れた固義の人が打黄鬼と似たような街頭の無言劇を見て、それを学んで持ち帰ったというものだ。やがて、それをさらに改編した打黄鬼が固義に誕生した。よって、打黄鬼はすでに600年以上の歴史をもつということになる。

 

 固義の村人たちにとって、「黄鬼」は邪悪の象徴である。たびたび氾濫した洪水も、疫病や結核もすべて、黄鬼が災いしていると考える。黄鬼は特に両親を虐待する親不孝をも指し、オーソドックスな儒家学説が郷儺に浸透していることを反映している。鬼を追い払い邪気を鎮めるという打黄鬼のプロセスは、人そのものを正し、道徳行為を導くものでもあるのだ。

 

村中総動員の「打黄鬼」

 

夜間の鬼払いからずっと、街中を交代で見回りをする威風堂々たる「探馬」
 筆者が宿を借りた農家の主人・何順田さんも打黄鬼の祭りに参加している。彼は仮面をかぶって「四値神」の役をつとめる。四値神は玉皇大帝のもとで年月日や時を担当する当直官で、烏紗帽(昔の文官がかぶった帽子の一種)をかぶり、蠎袍(明・清の大臣が着た礼服)を着て、背の高いラバに乗っている。打黄鬼に登場するさまざまな役柄には、天上、人間、地獄という3つの世界の神と鬼も含まれる。玉皇大帝、四値、四尉(東西南北の四方の当直官)、城隍爺(町の守り神)、土地神のほか、さらに閻魔王や判官、大鬼、二鬼、三鬼などもある。その舞台姿は、隈取りをほどこし、仮面をかぶり、昔の服装と装飾品を身につけ、真面目なあるいは獰猛な顔つきをしている。村全体で仮面をかぶる者は340人、顔に隈取りをほどこされた者は400人以上に達する。さらに花会の出演やそれをさまざまな形で手伝う大勢の人を加えれば、どの家もほぼみな祭りに参加しているといってもいい。全人口2000人あまりという村で、1000人以上は直接または間接的に祭りに参加する。

 

 旧暦正月14日の夜には、ほとんどの村人は夜通し寝ずの準備に忙しい。李氏祠堂では、顔に隈取りをほどこしたり、仮面をかぶったり、舞台用の服装を試したり、道具を整えたりしながらひっきりなしに出入りする村人たちで賑わっている。

 

 固義村の打黄鬼は、23年おきに一度、固義所轄内の4つの村の「社首」のもとに行われる。社首は村の最初の25戸から選ばれ、一戸から一人ずつが世襲で担当する。5人の社首を一組として5組とし、祭りのたびに、ある社首組が資金を集め、活動を組織する役を買って出る。ほかの社首も彼らに協力する。

 

高い台の上にあがっているのは「七品芝麻官(もっとも下っ端の役人)」に扮した人
 ここ数年ずっと、社首の総指揮を務めてきたのは李増旺さんだ。李さんは1951年生まれで、先祖たちもみな社首を務めてきた。祭りの間、彼の家は司令部となる。5600着にも及ぶ舞台用の服装、旗や武器、銅鑼や太鼓などが彼と社首たちの手で整理、手入れ、分配、虫干し、保存される。祭りを行う資金はかつては各家から集められ、各家からの募金は多くても少なくても良く、不足分は社首たちが補足した。今では、企業家のスポンサーもついている。さまざまなことで忙しく立ちまわらなくてはならない社首たちだが、すべてボランティア、無報酬である。

 

 祭りや公演に参加したり、手伝いをしたりする人々はみな代々世襲である。父が息子に伝え、息子がなければ女婿や甥に伝え、派遣や選出などは行わない。前の年の旧暦10月の上旬から翌年の正月13日まで、祭りの下稽古と準備はずっと続く。役者組、篷台(テントや舞台)組、棍棒組、煙火組、騾馬組など、それぞれどこかの家が責任を負う。それぞれの家の人々は各自の仕事をよく理解しており、すべては段取りを踏み、秩序立てて進められる。

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