湖北省・黄石市道士フク村 屈原しのび、飾り舟流す神舟会
魯忠民=文・写真
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若者たちが用意した稲わらの台の上に乗せられたあと、牽引船で川の中央まで引かれてゆく神舟 |
西塞山と道士
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山脈の北端が長江まで延びている西塞山 |
西塞山のふもとにある道士フク村は、黄石地域の長江流域でもっとも早い時期に町ができたところで、隋唐(581~907年)のころには、土フク鎮または楚雄関と呼ばれた。滔滔と流れる長江は西塞山によってさえぎられ、静かな湾と半島を形づくり、ここを行き来する船舶の停泊地と物資の集散地となっていたのである。
歴代の王朝はここに駐屯軍をおき、役所や穀物倉庫を設けた。通りが縦横に入り組み、店舗がずらりと並んだ古鎮は、大変な賑わいであった。戦争や水害の被害を受け、さらに現代に至って陸路の交通が整備されたため、埠頭はいつしか繁栄を失い、古鎮は次第に落ちぶれていった。現在の道士フクは、古鎮の古い建物がセメントでつくられたビルに取って代わられた。現在、この地に住む480戸、2762人の住民は、主に野菜栽培や貿易、サービス業を生業としている。
神舟会と厘頭会
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旧暦5月16日は神舟が巡行する日である。担ぎだされて街を練り歩く神舟は、人々に幸せをもたらす |
伝説によれば、屈原は旧暦の5月5日に川に身を投げたが、その訃報が道士投げフクに伝わったのは10数日のちであった。屈原の遺体を納棺する人がいないことを懸念した村人は、急いで舟を造って遺体を納棺することにした。先を争って金を出し、2、3千戸の家が1戸あたり1厘の銀を寄付して厘頭会を創立した。村人は昼夜を徹して造った2艘の舟を赤色に塗り、「紅船」と名付けた。
その後、上流地域の人々がすでに屈原の遺体を納棺したことを知る。屈原の死を悼み、一日も早い昇天を祈願して、人々はさらに紙で1艘の竜船を造り、屈原の遺影を祀った。このとき以来、毎年神舟会を開催するという習わしが少しずつ形成されていった。
「神舟」造りスタート
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神舟の前甲板には、紙製の千里眼、順風耳、東西南北中の五方神などの神将が安置されている |
竜船は、長さ7メートル、幅2メートル、高さ5メートル。亭台楼閣は、美しい装飾が施され、強い勢いを感じさせる。船体は若干の木材のほか、主に茅とアブラナの茎を中に詰めて赤布で表面をくるんだもので、船倉の竜骨は木材でつくられているが、ほかはすべて細い竹でつくられ、そこに紙を貼り付けて完成する。きわめて高い工芸技術である。
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神舟の船室に鎮座する紙製の忠孝王・屈原大夫 |
後ろの甲板に立つ人形は船長で、太鼓を叩いて指揮する。船尾には舵取りの人形が一体、さらに両側にそれぞれ12体の水夫がおり、全部で64の神像がその役を務める。7メートルにもおよぶ帆柱には旗と斗がかかっている。旗には大きく「代天宣化」「収災緝毒」の文字が書かれ、斗は四方平安を守ることを意味する四角形のものである。また、帆柱のてっぺんに飾られた風を受けて回転する風車によって、風を観測する。