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遼・金王朝 千年の時をこえて 最終回

 宋王朝が中国の南部で栄えていた頃、中国北方はモンゴル系の契丹人によって建てられた遼(907〜1125年)と東北部から興ったツングース系女真族の金(1115〜1234年)の支配するところとなっていた。これら両王朝の時代に、北京は初めて国都となったのである。

 

北京西山の八大水院

 金王朝は世宗と章宗の在位中に経済が繁栄し文化が発展する黄金期を迎えた。この平和な時代に皇帝たちは、首都の中都(今の北京)近郊の山中に適地を求めて、 行宮を建設した。これらのうち、最高の泉と環境に恵まれたものが、章宗により、西山の「八大水院」に指定されたのである。その場所には仏教寺院があり、今も自然の美しさを残している。

 歴史書の中で、「八大水院」の全てが確認されているわけではないが、金とそれに続く王朝に関する史料や石碑の文面などから水院の位置を推定することは可能である。確かなことは、金の皇帝一行が、渓谷で狩猟を楽しみ、寺院の泉水の傍らで野営をしたことだ。東北部の寒冷地から来た騎馬民族の伝統を受け継いだ溌剌たる精神は、息のつまる都から、涼しい山中へと彼らを駆り立てたのであろう。これらの地には皇帝の命により、古い寺院が再建されたか、或いは新たに寺院が建立され、僧侶たちが泉水の管理に当たったと言われる。

 「水院」という名称からも明らかなように、場所の選択に当たっては、泉の存在が不可欠な要素だった。石造りの水路を通って水が寺院や行宮の周囲を流れるように工夫されており、とりわけ上等の水は、水路によって首都まで導き入れられる場合もあった。「水院」に共通なもう一つの特徴は、背後に峻険な山を擁する比較的登り易い丘陵の上に位置し、頂上の平地には今も古木や擦り減った巡礼道が残っていることだ。

大覚寺、清水院― 金代に植えられた桧の樹。海淀区 大覚寺の龍池

 地図で見ると、八つの寺院は西山の中央峰をほぼ円形に取り巻くように位置していることが判る。これが曼荼羅の八つの世界を象徴すべく意図的に配置されたものかどうかは定かではないが、仮に宗教的な意味はなくとも、狩猟場を次々に適当な距離の範囲で移動して行った彼らの習性からみれば、理屈に合った設計だったと言えるであろう。

 「八大水院」のいくつかは、よく知られ、訪ねることも可能であり、そのうち二つは章宗の「燕京八景」にも入っている。しかし、多くは人跡まれな道を辿って行かねばならず、未だに一般開放されていない場所が一カ所ある。遼王朝初期に造られた寺院は、契丹族の太陽信仰に従って、東を向いており、女真族もそれを踏襲したものと思われる。これらの寺院は全て、女真族の末裔の満州族の手で修復されたため、今も一部、その姿を留めている。「八大水院」はこのように歴史の多層の積み重ねの遺跡と言えよう。八百年以前同様、「水院」はその特別なたたずまいによって、現在も首都の喧騒から逃れる貴重な避難場所となっている。以下に「八大水院」を紹介したい。

大覚寺―清水院

 大覚寺の泉水は千年以上も庭園の中を流れ続けている。龍池から溢れ出る有名な泉のおかげで、訪問客も多く、保存にも気が配られている。境内には遼代の1068年に建てられた「陽台山清水院創造蔵経記」碑があり、その石碑にも、「無類の清泉」と表現されている。金王朝に入り、1191年、章宗によって再建され、行宮に指定され、「清水院」という名称もそのまま維持された。章宗は寺院が東向きのままの状態で残し、見事な桧を二本植えたが、この木は今なお門の傍らで訪問客を歓迎している。

 私にとっては、大覚寺はいつの季節に訪問しても心楽しい場所だ。春には、谷全体が白いアンズの花に満ち、樹齢四百年の高名な玉蘭が花をつける。酷暑の夏は、下界より遥かに涼しい境内で「銀杏王」の木陰に憩い、泉水のせせらぎに耳を傾ける。黄金色の銀杏の葉が濃紺の空に映える秋は、巡礼の古道を散策する。冬こそ、この聖域の静けさを満喫できる時。永遠の泉水で点てたお茶を味わう。

聖水院。黄普寺へ至る石の古道。海淀区

黄普寺―聖水院

 黄普寺の跡は鳳凰嶺の険しい斜面に自然な形で残っている。この寺は章宗が猟場の「聖水院」の中に造営した。私は苔むした石段を登り、曲がりくねった古道を山頂へと向かった。あいにくの曇り空だったが、桃の花の薄いピンクが背後の山肌に映えていた。金時代に植えられた一本の銀杏の古木が、石の祭壇や石柱の跡などが散見されるこの場所こそ、「聖水院」の所在地であることを教えてくれた。崩れかかった石碑の文字から、私はこの地の歴史と金代へ遡る起源を読み取ることができた。ここには人の目を驚かせる巨岩があり、後になってその上に塔が建立された。明代に修復された際も、附近の洞窟や石門はそのまま活用され、名前だけ妙覚禅寺と変わった。「聖水泉」は、さらに登った所にある。この辺りは現在でも廃虚の中を散策する最適な場所となっている。

玉泉山―泉水院

 玉泉山は天下第一泉の称号を持つもっとも有名な水院である。ここは金王朝の海陵王が行宮を造営した所で、1190年には章宗が水路を造り、玉泉の水を山から南東へ、最終的には今の北海へ流れ込むようにしたのである。この水路は金河として知られていた。玉泉の近くに「泉水院」が造られ、後に章宗が芙蓉殿を建ててからは離宮として使われた。『金史』には皇帝が度々ここを訪れ、金の首都を眼下に一望して寛いだと書かれている。泉の湧く辺りに虹が懸かることから、泉水院は「燕京八景」の一つ「玉泉垂虹」と称され、北京郊外の名勝となった。  

玉泉山、泉水院。遥かに西山を望む。海淀区

玉泉のある一帯は現在、立入り禁止区域になっているが、玉泉山そのものは昆明湖の背景としていつでも望むことができ、その頂上に塔が建っている。私は、玉泉山をもっとも近くから観察し得る地点は、その東側の運河沿いであることを発見した。しかし、そこに立って、私ができたことは「噴雪泉」の別称で呼ばれる玉泉の小雪の舞うような繊細な飛沫のイメージを想い描くことのみであった。

香山寺―潭水院

 香山公園の中心部に香山寺の遺跡が残っている。元々、そこには遼代の小さな墓地があったが、金の時代にこの一帯は獲物の豊富な猟場に変わった。世宗は会景楼を建て、さらに1186年、大永安寺(後の香山寺)を建立、土地と二万両と多くの果樹を寄進した。章宗はそこを「潭水院」と名付けた。『金史』の記述によれば、1194年から1206年の間、章宗はしばしばこの行宮に滞在したと言う。言い伝えでは、この地で章宗が泉の夢を見たことがあり、そのために泉が発見された時、「夢感泉」と名付けたと言われている。実際には、発見された泉が二つあったため章宗は「双泉」と揮毫している。「潭水院」は「燕京八景」の中では「西山積雪」と記載され、後世に「西山晴雪」に変更されたことから判るように、当時は冬の景勝地であったが、現在、人々は紅葉を愛でにここを訪れる。  

香山寺遺跡辺り。金・章宗の「燕京八景」の1つ「西山積雪」

寺の堂宇は既に無いが、坂を登る石段には、石彫の破片が散見される。伽藍の配置は土台石の並び具合からある程度想像できる。有名な聴法松をはじめ松の古木群が古色蒼然たる雰囲気を醸し出しているが、やはりこの地に生命を与えているのは、石の水路を流れる清冷な泉水である。

 

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