遼・金王朝 千年の時をこえて 最終回
双泉寺―双水院
西山の西側斜面の谷間に、双泉寺がある。1194年、章宗が行宮を建て、その夏をここで過ごしたと言う。豊富な水量を誇る二つの泉にちなんで「双水院」の名がある。寺院の堂宇は永いこと放置されたままで、かつての姿を想わせるものはほとんど残っていないが、数本の古木と二つの石碑が、過去の栄光をわずかに保っている。昔は万善橋という美しいアーチ型の橋の下を川が流れ、そのまま渓谷を横切っていた。
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双泉寺の遺跡、双泉院。石景山区 |
双泉寺に通ずる万善橋。橋は金時代に建設され明代に再建された |
泉源を求めて行くと、地元の人々が泉の水を容器に汲んでいる大理石の井戸があった。昔ここで寺が経営する茶店を管理していた家族によると、この泉の水源は豊かだそうだ。寺の祭日、特に陰暦三月十五日には、西山を越えて来る多くの参拝者で賑わったという。緑色の陶板には「双泉寺茶店」の文字が見えるが、今、ここを訪れる人は稀である。甘い泉の水で点てたお茶をご馳走になると、往時の茶店が蘇ったように感じられた。谷間一帯を眺望すると、章宗が宮殿を離れて寛ぐために、この静寂な場所を選んだ理由がよく理解できる。
金山寺―金水院
樹齢900年を数える二本の銀杏が金山寺の目印である。元の建物は既に無いが、再建された堂宇は大陽山の斜面に東向きに建っている。泉が湧いているおかげで、この寺は金王室の庭園と野営地になり、章宗によって「金水院」と命名された。寺の門前に恐らく女真人たちが天幕を張ったであろうと思われる広場があり、今そこは銀杏の林になっている。磨かれたような石の巡礼道が寺へと、さらに背後の山に向かって続いている。20世紀初頭、西太后の妹がこの寺に出家したのにちなんで、金仙庵と改名されたと言われている。
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金水院、金仙庵の金泉。海淀区 |
泉は今も多くの人々を魅了しているが、水は水道管から溢れ出て、往時のままの石の水路に流れ込んでいる。傍らにある石に「金山泉」の文字が彫ってある。毎日ここへ泉水を汲みに来るという地元の人は、「この泉の水は最高だ。それにタダだしね」と笑っていた。甘い水の秘密は、水が地表に出るまでに通り抜ける石にあると言われている。
法雲寺―香水院
妙高峰の東斜面にある清朝時代の七王墳は、唐代に建立された法雲寺の上に造られた。ここは金の皇帝たちが好んだ野営地の一つで、章宗により「香水院」という離宮が建てられた。百年を経た七王墳の高い壁と隣接する旧居が千年の歴史を持つ場所への入口を塞いでいた。そのため墳を囲む壁の背後まで探査するには、それなりの覚悟を要した。私は歴史の扉を開こうと、細い小径の坂を登り、次は松の生い茂る谷間へと這うようにして降りて行った。間もなく、蔦の密生している所に、崩れかかった大理石の橋が姿を現した。水の流れは枯れてしまっていたが、ここが昔の金魚池で、その近くで彫刻の施された石に覆われた古い泉が、見つかった。私は石蓋のへりに耳を寄せ、地下を流れる深い水音を聴いた。泉水は石の水路を通って壁の傍らまで、流れ込んでいた。松の古木と石の橋、そして泉の水が、往時の寺院と「香水院」のおもかげを留めていた。
法雲寺、香水院の遺跡の見事な銀杏。今は七王坟。海淀区 |
法雲寺跡の傍らを 流れ落ちる泉水の水路 |
仰山栖隠寺―霊水院
門頭溝地区の五つの峰に囲まれた深い谷間の中に仰山栖隠寺はひっそりと昔のおもかげを留めている。その名のとおり、この寺は人里離れた処にあり、雑草におおわれた石の巡礼道が通っている。伽藍は永いこと放置されたままで、周囲を高い壁が取り巻いている。壁を乗り越えると、内部には、ほとんど寺の原型をしのばせるものは見当たらなかった。棘のある灌木が密集し、付近に散乱している石柱の一部や壊れた二つの石碑、黒塗りの屋根瓦を人の目から隠していた。石碑に刻まれた文面には、ここの由来が記されており、遼時代にこの地にあった寺に1162年、金の世宗が栖隠寺と名を付けたことが判る。また1180年当時、この寺は約一万人の僧侶を擁していたとも書かれている。その後、章宗の手で大拡張工事が行われ、その名も「霊水院」と呼ばれるようになった。壁の反対側の小渓谷の中に良好な状態で残っている二つの塔が見えた。さらに興味をそそられたのは、近くを通っている石造りの細い水路で、現在、水は枯れているが、山の奥から泉水が寺へ流れ込んでいた様を示している。この水源こそ、かっての壮大な寺院に生命を吹き込んで来たのだ。
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仰山栖隠寺、霊水院、周囲の壁跡。門頭溝区 |
栖隠寺境内に残っている水甕 |
西山の「水院」はそれぞれが歴史の名残を留めており、特別の雰囲気を醸し出している。金の章宗は、これらの「水院」を王室の野営地とした一方で、寺院の繁栄のため聖地として手厚い保護を施した。「八大水院」のどれかを訪ねて一日を過ごせば、首都の貴重な水源の重要性を理解することができる。近年の急速な都市化に伴う北京の変貌を目の当たりにする時、かつて此の地に初めて首都を置いた遼・金王朝、そして後代の王朝を通じて美しい樹と泉に恵まれていた古都の姿に郷愁を覚えるのは私一人ではないであろう。
人民中国インターネット版 2011年2月