擂鼓墩 古代音を伝える曾侯乙の編鐘
丘桓興=文 魯忠民=写真
擂鼓墩は、湖北省随州市の西の郊外、省都・武漢市から北西へ155キロ離れたところにある。2000年以上前の春秋時代(紀元前770〜同476年)に、楚王がここで太鼓を叩いて(擂鼓)、突撃する兵士を鼓舞したことに由来する。
1978年、湖北省博物館が2400年以前の曾国の王・曾侯乙の墓を発掘した際、大量の青銅器や漆器、陶器、玉器と竹簡などの貴重な埋蔵物1万5400点余りが出土した。その中で、「古代冷蔵庫」と称えられている青銅製の鑑缶(酒を冷やしたり温めたりする容器)や、彫刻が精美な大金盞、16の環が繋げられた龍鳳玉飾りと「二十八宿図」を描いた衣装箱など、いずれもまれに見る国宝といえる。とりわけ完全に保存された65個の鐘を備えた編鐘は、現在でも各種の曲を演奏できることから、各国の考古学界で世界音楽史上の重大発見と見なされている。
棺に描かれている門と窓
随州市博物館の孫建輝副館長が、曾侯乙墓の遺跡を案内してくれた。1977年の秋、現地の軍隊が工事をした際、土の色がおかしいことに気付き上司に報告した。綿密な準備をした後、1978年5月、湖北省博物館の考古学担当者が発掘を始めた。埋め戻された土を取り除き、大きい石板を持ち上げて開け、さらに青いねばねばした泥と60トンの木炭を取り除くと、ようやく地面から深さ13メートルのところで、大きな墓を発見した。171本の角材で囲われた多角形の墓室で、総面積は220平方メートルあり、東室、中室、西室、北室に分かれている。長方形か正方形の普通の墓室と異なり、多角形の墓室は非常に珍しい。おそらく埋葬されていた墓主の生前の宮殿を縮小した形で、古代の「事死如事生(死後も生前と同じように仕える)」という埋葬習俗の反映だろう。
東室に安置されていた墓主の内外二重の棺は完全に泥水に浸されていた。担当者は2台のクレーン車を使っても引き上げられなかったため、二重になっていた棺の蓋を開くほかなく、中の文物を取り出し、さらに水を注入して内棺を浮かび上がらせ、総重量9トンを超える内棺と外棺を順番に引き揚げた。外棺はU字型の銅製骨組みに木板を嵌めた珍しい銅木棺で、さらに吊り下げて埋葬するのに便利なように、蓋に12個の銅の取っ手、底には10個の円形の獣の脚が鋳造されている。内棺の表面には、龍、蛇、鳥や神仙、妖怪などの図案が漆画で描かれていた。驚かされたのは、外棺の壁面に1ヵ所、子どもが自由に出入りできるほどの穴が開けられ、また内棺の両側の壁面にはそれぞれ窓が描かれている。言い伝えによると、墓主の魂が出入りするためだという。
出土した器物の銘文から、墓主の曾侯乙は曾国の諸侯の一人で、名前は乙だと分かった。馬王堆漢墓で発見された女性のミイラのようには、遺体が完全に保存されていないものの、専門家は棺内の骸骨、特に頭蓋骨の継ぎ目の状態から、墓主の年齢は45歳前後、身長は163センチだと推定した。
古今東西の楽曲演奏が可能
4つの墓室の中で、中室がもっとも大きく、墓主の宴会場か客室だろう。ここで出土した一セットの青銅の編鐘と数点の国宝級の文化財は、世界中を驚かせた。編鐘は音階の違う音を出す青銅製の鐘を吊るした古代中国の打楽器だ。
出土したのは65個の鐘を備えた編鐘で、銅と木を組み合わせた3段の枠に吊るされ、中室の西と南の壁に立てかけられていた。全長は10.79メートルで、剣を付けた6人の武士の青銅像と数本の柱で支えられている。最上段の鐘は鈕鐘といい、中段と下段は甬鐘という。それぞれ大きさが違い、最小の鐘は2.4キロ、最大の鐘は203.6キロ、1セットの総重量は2567キロだ。鐘の表面には、龍をばらばらにしたような模様が入り交じったデザインが施してある。こうした規模が大きく、鋳造が精緻で保存状態が良い編鐘の出土は、世界考古学史上にもかつてないそうだ。
音楽専門の考古学者の測定によると、一つの鐘は、二つの音を出すことができる。編鐘の音階は、現在通用している8長調7音階と同じで、その音域は広く、最低音から最高音まで、5オクターブ半もある。ピアノより両端が1オクターブずつ足りないだけだ。その中心音域の12の半音がそろっており、自由に主音を転調させることができる。それに和音やポリフォニー、転調の技法はかなり完備し、古今東西の多種の楽曲を演奏できる。編鐘の音色はバラエティーに富み、大型の鐘の音は低く沈み、中型の鐘の音は純粋でつやがあり、小型の鐘の音は透明で澄んでいる。それぞれの音調が共鳴して、その響きは感動的だ。
まるで古代オーケストラ
世界的に有名な音楽家のイェフディ・メニューイン(米国。1916〜1999年)は、曾侯乙の編鐘による演奏を聴いたあと、こう語った。「古代ギリシアの音楽芸術はあの時代のピークだとされているが、当時の楽器がいったいどのような音を出したのか、もはや確認できない。それに比べて、古代中国の音楽はほとんど知られていなかったが、この編鐘セットによって、2400年前の音楽を再現することができる」
さらにありがたいのは、編鐘の表面に2800文字の銘文が刻まれていることだ。上段に並ぶ19個の小型鐘の銘文は少なく、音名だけが付けられている。中下段の45個の大中型の鐘の表面には、それぞれ音名のほかに長い音律に関する銘文があり、音階名、音程と派生音名などが記載されている。専門家はこれらの銘文は演奏者に便利だっただけでなく、古代音楽理論の貴重な著作として、研究する価値が大きいと考えている。
中室には、編鐘のほかに、編磬(打楽器の一種)セットや瑟(琴に似た弦楽器の一種)、建鼓、竹篪(笛に似た8つの穴がある楽器)と排簫などの楽器も残っていた。全部そろうと大規模な古代宮廷オーケストラとなり、曾侯乙が主催した祭祀、婚礼、葬礼などの儀式や宴会で演奏したのだろう。
そのほか、東室からは琴、太鼓、笙などの楽器が出土した。曾侯乙が音楽を好み、余暇には、居間でこれらの楽器で演奏された当時のポピュラー音楽を楽しんでいたことが想像できる。東室に安置された副葬棺の中で眠っていた8人の若い女性は、おそらく当時、彼のためだけに音楽を演奏した美女たちだろう。
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大型尊缶には「曾侯乙作持用終」の7文字の銘文が刻まれている |
曾侯乙墓の墓主の頭蓋骨と骸骨から復元した胸像。42〜45歳の男性と推定される |
鎛鐘は曾・楚の友情の証し
出土した編鐘は古代音楽を再現できるだけではなく、さらに心を動かされる物語を伝えている。
65個の鐘の中にほかと異なる鎛鐘がひとつある。大きな鐘体を持ち、精美に作られているこの鐘は下段中央のもっとも目立つ位置に吊るされている。正面には31文字の銘文が鋳造され、「楚恵王56年(紀元前433年)、惠王は西陽から戻り、曾侯乙のために、この鎛鐘を鋳造し、曾侯が永遠に享受できるように西陽に送った」という意味を伝えている。
この銘文は音律と関係ないが、曾楚両国の並々ならぬ強い友情の絆を示している。
研究によると、曾国は史書に記録されている随国だ。随は西周初期、周王が姫氏一族に分け与えた小国の一つだが、初期には強い国力を誇り、「漢東の国の中で随が最強だ」と史書に書かれている。その後、周辺の圧迫に屈し、次第に衰えていった。一方、春秋五覇、戦国七雄の一つに数えられる楚国は、一貫して中国南方の最強の諸侯国だった。
しかし、楚国の800年の歴史には、危うい時もあった。紀元前506年、呉王は兵を率いて楚を討ち、楚の国都を攻め取った。楚昭王は慌てて都の郢から逃げ出し、鄖国に身を寄せた。しかし、鄖の君主の弟は助けないばかりか、逆に殺そうとした。昭王はまた随国へ逃げ出し、受け入れてもらった。随国の君主は追跡してきた呉王に対して、楚王は随国から逃げ出したと告げた。呉王は入城して捜索しようとしたが、随の君主は拒否した。まもなく、援軍が駆けつけてきて、呉軍を討ち取った。
その後、代々の楚王は随国への恩返しを肝に銘じている。楚国は相次いで60ヵ国以上の諸侯国を滅ぼしたが、弱小の随国は700年近く生き延び、輝かしい随国文化を後世に残すことになった。紀元前433年、曾侯乙が亡くなると、楚恵王は父君を助けてもらった恩に報いるため、この美しい鎛鐘を鋳造した。曾(随)国もこの手厚い贈り物をもっとも目立つ場所に置き、楚国に敬意を示した。
古代楽器の材料は8種類
人類の生活に音楽はなくてはならないものだ。遠い昔、世界各地で楽器が生まれている。6000年前、ナイル川上流に住んでいたアフリカ原住民たちは、陶製の太鼓をたたいて音楽を楽しんだ。西アジアのチグリス川・ユーフラテス川流域のウル王は4500年前にハープを奏でた。日本の弥生時代の土笛の陶壎も2200年の歴史を持っている。
古代中国は楽器を「8音」と総称していた。楽器を作る材料によって、金、石、土、革、絲、木、匏、竹の8種に分類していたからだ。金は鐘のような銅、鉄で鋳造。石は磬のような玉石製。土は壎のような陶製。革は太鼓のような皮革が材料。絲は琴のように弦を使う楽器。木は梆子という拍子木。匏は笙のようなひょうたんで作ったもの。竹は竹笛など。
中国の古代楽器は長い歴史を持っている。古典『尚書』に、「撃石拊石、百獣率舞(石を打ち鳴らせば、百獣が踊り出す)」と書かれており、古代人が石をたたきながら、そのテンポにあわせて踊る光景を描いている。山西省襄汾陶寺、夏県東下馮では4000年前の石磬が出土した。河南省安陽で出土した3000余年前の商代の大磬は濃密で明瞭な音を響かせ、美しい虎の装飾が施され、楽器として完成品といえる。
陶芸の発展に伴い、各地で出土した陶壎にも進化の跡が見られる。浙江省余姚河姆渡で出土した7000年前に作られた一つ穴の陶壎はまだ楽器と言えないが、壎の雛形にはなっている。西安の半坡で出土した6000年前の陶壎は上部と下部に一つずつ穴があり、三和音を出せるようになっている。商代に入ると、陶壎は5つの穴があり、7音階の曲を演奏できるようになった。
曲目も身分によって区別
古代の人々は骨で楽器を作ったこともある。河南省舞陽では8000年前の鶴の足の骨で作った25本の笛が出土した。そのうちの3本はそれぞれ5穴、6穴、8穴で、ほかに7穴の笛が3本あり、5音、6音、7音の音階の曲を吹くことができる。河南省浙川では周代の骨を組んで作った5本の簫が発見された。13本の鶴の足の骨を組んで作った簫はすでに楽曲を奏することができる。
商(殷)・周の時代、青銅器は急速な発展を遂げた。鐘は楽器、礼器として、中央王朝や各諸侯国で大流行し、規模もますます大きくなった。たとえば、編鐘の場合、商代では3個から5個しかなかったが、周代は9個から13個に増えた。戦国時代はさらに1セット61個に増加し、曾侯乙のいた小国でも1セット64個の編鐘を鋳造できた。
周代の音楽の発展は当時の礼楽制度と密接な関係がある。西周時代に、天子から各諸侯、公卿、大夫、士に至るまで、宗法制度や身分制度を維持し、自らの身分、地位、権力を誇示するために、祭祀、会盟、宴会、冠婚葬祭や出陣の儀式に合わせて、音楽を演奏し、舞踊も添えた。しかも、身分によって演奏する曲目や踊りの種類が異なり、音楽隊、舞踊団の規模、人数は厳格に区別され、それを破ることは許されなかった。
周代は音楽を重んじ、礼制を厳格に実施していた。専門の楽士や地位の低い弾き手、踊り手のほか、貴族の子どもも13歳から「大司楽」という専用の音楽学校に入る決まりがあり、詩の朗読、音楽、舞踊の修行を義務付けられていた。重要な国家行事の儀式で音楽、舞踊を演じるためだった。
その後、東周王朝の国力が衰微し、諸侯間の紛争が起き、「礼節と音楽の崩壊」によって、社会、思想、文化が華々しく解放され、百家争鳴の発展期を迎えた。曾侯乙のような小国の諸侯でも、これほど大規模で、精美な編鐘を作ることができたことは当時の長江流域の高度な音楽水準を反映している。
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飲食に使う金属製の器・金盞。2156グラムあり、これまでに発掘された先秦時代の金属食器の中でもっとも重い |
酒を冷やした古代冷蔵庫
曾侯乙の墓から出土した1万5400数点の文物は、青銅器だけでも6000点を超え、重さは10トン以上もある。青銅器の数がもっとも多く、種類もかなり豊富な発見だ。
117点の青銅礼器はほとんど中室に置かれており、種類が多様で、組み合わせの関係がよく分かる。また、この墓は外部からの影響を受けなかったため、当時の生活様式を残している。たとえば、当時「盤鼎」と呼ばれた炉盤(ストーブの下に敷く防火皿)には魚の骨が入ったままで、魚を焼いたり煮たりする器具として使っていたと考えられる。当時の社会状況や貴族生活をよく反映しており、研究価値が極めて大きい。
曾侯乙の墓から出土した青銅器は当時の重要文化財や国宝にあたるものが多いが、いくつか紹介したい。
二つの大尊缶は酒を入れる甕で、高さは1.3メートル、重さは600キロ、400キロの酒を入れることができる。これほどの壮大さを誇る大尊缶はまさに国の重要文化財と言えるだろう。
連禁大壺も酒を入れる器具。貴重なのは二つの壺が「禁」という青銅板の上に置かれ、板の底に付いている4本の獣形の足に支えられていることだ。
一対の青銅鑑缶も巧みに作られている。外側の方鑑と内側の方缶からなり、鑑の底部のほぞと缶の底部のほぞ穴はぴったりとつながり、自由に組み合わせることができる。鑑と缶の隙間は氷の塊を入れるところだ。夏の暑さが厳しい江漢地区(湖北省中南部)では、この青銅鑑缶で酒を冷やして飲むと、すがすがしくて飲みやすいし、長く保存できたからだろう。今では「古代冷蔵庫」と呼ばれている。
もっとも賛嘆に値するのは青銅尊盤。尊は酒を入れる容器、盤は水や氷を入れる容器で、酒を冷やしたり、暖めたりするのに使われる。珍しいことに、尊と盤の全体に施された繊細で複雑な立体的な模様は絡んでいる無数の龍と蛇だ。この尊盤には派手な装飾が施され、交錯する龍と蛇の文様は、はっきりしており、独立しながらも一体感を感じられる。先秦時代に作られたもっとも複雑でもっとも精美な青銅礼器だ。
この国宝を詳しく研究した学者は、「失蝋法」によって作られたと推定している。失蝋法はまず蝋で模型を作る。次に蝋の模型の外側に石英砂のような耐火材を付け、陰干しにした後、この模型を焼く。蝋は熱で溶けるが、「陰模」と呼ばれる殻は残る。この「陰模」を使えば、青銅器を鋳造することができる。
また職人たちが「平彫り」「浮き彫り」「透かし彫り」などさまざまな工法を使って製作したことが分かり、製錬・鋳造技術の高さが明らかにされた。
人民中国インターネット版 2011年3月2日