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燦然と輝く楚の文化

丘桓興=文 荊州博物館=写真提供

『三国志演義』を読んだ人なら、劉備が荊州の地を借り、関羽が荊州を守った物語はよくご存知だろう。長江の北岸にある歴史と文化の名城である荊州は、古より兵家必争の地であった。荊州の近くにある紀南城は、かつて春秋戦国時代(紀元前770~前221年)、楚の国の都であった。2000年以上も前、中国南部にあるこの大きな都市は繁栄し、諸侯による覇権争奪戦争の数々の舞台となった。

最近の60年、この地の建設工事に合わせて考古学者たちはこの一帯で、千基以上の楚墓を発掘した。数万の青銅器や漆器、絹織物、玉器、竹簡、陶器などが出土し、輝かしい楚の文化が姿を現した。

今日でも、荊州を中心とする楚の文化は依然、珍しくてロマンに満ちており、多元的な中華文化の宝庫の中で燦然と輝いている。

400年以上栄えた都

荊州博物館の張万高、后加昇の両研究員に案内されて、荊州城の北5㌔にある紀南城の遺跡に来て見ると、夕日に照らされ、長く続く古い城壁と東南の隅にある烽火台の上は草が生い茂り、荒涼としていた。

史書の記載によると、紀元前11世紀、楚の首領は商(殷)の紂王に背き、周の文王を擁護したため、周の文王から丹陽(現在の河南省淅川丹江口ダム一帯)の地に分封された。最初、領土は小さかったが、その後、荘王など歴代の楚王が苦労して創業し、武力で国を拡張し、次第に長江中下流域を支配するようになった。そして百万の強兵と万を超す戦車を有する中国南部の大国となり、800年の間栄えて、春秋の五覇、戦国の七雄の一つとなった。

楚の紀南城遺跡の一角(写真・魯忠民) 荊州古城の南門(写真・魯忠民)

楚の国の都であった紀南城は、紀元前689年から建設が始まり、紀元前278年、秦国の武将、白起によって攻め落とされるまで410数年間、20代の楚王の都であった。1975年、湖北や北京などの考古学者が発掘を始め、現在、表城門が南向きに建てられた四角い都城が確認されている。その面積は16平方㌔である。

四面の城壁には七つの城門が設けられて、さらに三つの水上城門があり、朱河や龍橋河など四つの水流が城の中を通って流れ、城の堀の役割を果たしている護城河と長江につながり、水運や用水、消防にとって便利にできている。

紀南城の中は、宮殿区、平民区、手工業の工房区、商業区、大型の武器庫が置かれ、その配置は合理的である。史書によると、当時の市街はにぎやかで、人が押し合いへし合いしていたといい、朝、街に出かけて夜に家に帰ってくると、衣服はぼろぼろになっていたとある。これはやや大げさだろうが、紀南城の繁栄ぶりがうかがえる。

絢爛たる漆器の数々  

湖北の武漢、随州、荊州と湖南の長沙などの博物館にある各種の漆器は、非常に典雅、精緻であり、いくら見ても飽きることがない。ここでは、荊州の戦国時代の漆器をいくつか簡単に紹介しよう。

【彩絵鳳鳥双連杯】(彩色の鳳が描かれた二つの杯が連なった酒器)

1986年、荊州包山2号墓から出土。器は、首をあげ、まっすぐに立ち、羽を広げて飛ぼうとする鳳の形をしている。鳳の腹が二つの杯になっていて、ピンと伸びた鳳の尾が柄で、杯の下の二つの足は、羽を広げた一対の小雀である。構想は巧妙であり、つくりは精緻で、描かれた絵は華麗だ。それは婚礼の際に、二つに割った瓢に酒を入れて飲む「合卺酒」として使われ、新郎新婦の幸せを祝福するものだ。これは漆器の中でとくに貴重な宝である。

【彩絵人物出行図円奩】(彩色の外出する人物の絵が描かれた鏡箱)

これも荊州包山2号墓から出土。化粧道具を入れる鏡箱である。箱の各面に、貴族の外出と客を迎える情景を描いた相互に関連する五枚の漆絵が描かれている。人物の姿は真に迫り、衣服や飾りの線は流れるように生き生きと描かれている。これは珍しい、写実的な連環画とも言える。

「鳳鳥蓮花豆」(戦国時代) 彩絵鳳鳥双連杯(戦国時代)

【彩絵鳳紋盤】(彩色の鳳の文様が描かれた大きな皿)  

1982年、江陵の馬山1号墓出土。皿の中心に描かれた、体がつながっていて旋回する鳳の頭は、赤いのが正の鳳、外側の黒いのが負の鳳である。空間の構造上、図案は四角と円、動と静が結びつき巧妙なハーモニーをなしている。

【彩絵木雕小座屏】(彩色の木彫が施された衝立)

1966年、江陵の望山1号墓出土。木製の衝立には51匹のさまざまな形をした鳳、鹿、蛇、蛙が彫られ、それらは互に絡み合い、突っつき、噛みつき、取っ組みあっている。それぞれの動物は生き生きとし、躍如として真に迫っていて、精緻を極める。

各地で出土する「双耳杯」(一対の耳がついた酒器)は非常に多く、その形は、円い耳のものと四角い耳のものの二種類ある。当時の貴族は、宴会で酒を飲むとき、長い柄杓で酒を汲み杯に注ぐ。そして両手で杯の耳を捧げて一気に飲む。耳杯には、赤い下地に黒で描かれたものと、黒の下地に朱で描かれたものとがあり、文様には鳳、龍、魚、花、草、枝、蔓や幾何学文様が多い。今日、漆のテーブルや耳杯は、中国では過去のものになってしまったが、日本では漆のちゃぶ台や食器などがいまも使われている。

 

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