燦然と輝く楚の文化
複雑な漆器製作の工程
漆は漆の木に傷をつけてそこからにじみ出る液汁をとり、それを乾かすと黒色となる。それに油を混ぜ、希釈すると「油漆」となる。それを使って素地を塗り、乾燥すると漆の膜ができて、堅固で磨耗や酸、熱に強く、湿気や腐敗を防ぐ、光沢の美しい漆器となる。
漆の木は主に中国、日本、朝鮮、タイ、ミャンマー、インドなどに生育する。中国の漆の木は世界の80%を占めている。
中国の漆の歴史は長い。浙江・余姚の河姆渡博物館には、6000年以上前の漆を塗った木筒、木碗がある。また湖北・江陵から出土した漆塗りの鉞の柄は、5000年の歴史がある。
|
|
「彩絵鳳紋盤」(戦国時代) | 「彩絵双鳳紋耳杯」(戦国時代) |
長江と黄河の流域の各地で春秋戦国時代の漆器が出土している。その中で、楚の国の漆器づくりはきわめて盛んだった。史書によると、孔子が南遊し、楚の国に到ると、楚の人は孔子の輿を迎えて「漆は用いるべし、ゆえにこれを割る(傷つける)」と言った。また楚の国の哲学者である荘子は、蒙城の漆園の小役人をしていたことがあるという。
楚の国で主に漆器が大量に出土するのは江陵、荊門、荊州、丹陽の貴族墓からである。用途は主に、食器、酒器、家具、化粧道具、モノを入れる器などの生活用具である。その次には、葬送用品である鎮墓獣、座っている虎、飛ぶ鳥、臥せた鹿、臥せた虎や漆の棺や椁(棺を入れる箱)として用いられた。さらに漆を塗った懸鼓、瑟(琴に似た弦楽器)、簫や笙などの楽器や漆塗りの車や馬具、兵器、雑器などもある。
漆器の90%は木の原型に漆を塗ってつくられるが、皮革や竹、籐、陶器、銅、石の原型や漆の液が固まったものを原型としているものもある。木の原型の多くは一本の木を使ってつくられる。箱や耳杯は木をえぐってつくられ、樽や箱は木の片を巻いてつくられる。各種の動物をかたどった鎮墓獣や鼓を懸ける棚、衝立は木を彫ってつくられる。ただし、いくつかの方法を同時につかうこともしばしばあり、大型の器物は、ほぞ穴にほぞをいれて組み立てて原型がつくられる。
漆の色はおおむね朱と黒の二色である。黒の下地に朱で描かれるか、朱の下地に黒で描かれる。また内側が朱、外側が黒のものや朱と黒が交互に配されているものもある。いずれも鮮やかで目を奪われる。
漆絵の装飾や文様、題材は幅広い。その中の動物文様は、鳳、龍、鹿、蛙、犬、猪などが多い。自然の風景には山、水の渦巻き、雲彩などがある。幾何学文様には、円い点、円い輪、三角形、菱形、格子縞、S型紋などがある。社会生活の類の装飾は、車馬や人物の外出、迎賓、宴会、狩猟、祈祷師の歌舞、神話伝説が多い。
漆器の製作工程は複雑であるが、簡単に言えば、まず原型をつくりこれを磨き、漆を塗り、絵を施す。実際は、一つの漆器をつくるのに、何回も繰り返し磨いては漆を塗る。少なくても七、八重、多ければ十数重の漆を塗る。
漆器によっては、漆絵を描くほか彫刻、針刺し、金泥、金貼り、堆朱などの技法で装飾をする。最後に製作工房と漆工の印を書いたり彫ったりする。
このように漆器の製作は繁雑で、多くの人力を使うので、コストは青銅器をはるかに超す。このため、隋、唐の時代になると磁器製造の技術が成熟し、磁器が漆器にとって代わったのだった。
普遍的だった鳳崇拝
ここ数十年、多くの楚墓から大量の絹織物が出土したが、とくに1982年に江陵・馬山1号の戦国時代の貴族墓から保存が完全な絹織物と絹の刺繍の経帷子35点が出土し、考古学界を驚かせた。2000年以上前の絹織物の国宝は、博物館に展示されている。
「舞鳳舞龍紋繍」は、浅黄色の絹の上に、上から下へ一対の鳳凰と一対の龍の図案が並んでいる。龍と鳳は踊っているようで、その姿はしなやかである。とくに鳳は首をあげ、天に向かって高らかに歌っている。鳳の一本の足は爪先立ちし、もう一本は後ろに上げており、鳳の尾は湾曲し、踊る姿は優美で典雅だ。
同様に展示されている「蟠龍飛鳳紋繍」「飛鳳紋繍」「三首鳳紋繍」などは、それぞれ異なる刺繍の技法で、生き生きと舞い飛び、高らかに歌い、飛ぼうとする鳳を一羽一羽縫い上げている。
|
|
「彩絵狩猟扁壷」(戦国時代) | 「彩絵虎座鳥架懸鼓」 |
絹織物や漆器以外に他の文物にも、鳳の装飾文様はどこにでも見ることができる。例えば、兵器には「彩絵龍鳳紋漆盾」や「彩絵鳥獣紋矢箙面板」があり、車馬器には「鳥首形車飾」がある。また楽器には「彩絵虎座鳥架懸鼓」や「彩絵鳳紋石編磬」があり、玉器には「立鳥璧形玉佩」が、鎮墓獣には「虎座飛鳥」などがある。
龍と鳳は、中華民族が共通して崇拝する瑞獣と祥禽である。しかし楚の国の人々は鳳を格別に崇拝していた。だから装飾文の中に鳳は龍より大きく描かれ、鳳が百獣の王である虎の背にとまっている……。
これに対し、これは古代人の霊魂崇拝の現れだと見る人もいる。楚の人々は、祖先が世を去っても霊魂は死なず、鳳になっていて、もし至るところに鳳がいれば、常に神の加護を得て幸福で無事に暮らすことができると信じていた。
もう一つの説はこうだ。楚の人々は鬼神を信じ、常にさまざまな祭祀を行っていた。しかし、祈祷師が神を祭るとき、青空を飛ぶことができ、鳴くこともできる鳥、とくに一挙に空に上ることのできる鳳が媒介してはじめて人間の祈りが神の世界に達し、人と神が通じ合い、安寧を祈る祭祀の目的が達成される、というのである。
楚の人々の鳳崇拝は、紀元前613年に即位した楚の荘王にも見ることができる。荘王は「三年飛ばず、飛べば高く天にのぼる。三年鳴かず、一鳴すれば人を驚かす」と述べたが、荘王が自ら鳳を自任していたことを示している。楚の国の詩人、屈原も詩篇『離騒』の中で、鳳凰に自らをたとえている。
「天上に九頭の鳥があり、地上に湖北の佬(人のあだ名)がいる」という言い方がある。おもしろいことに、湖北の人々はこうした言い方を認めている。もともと「九頭の鳥」はすなわち「九頭の鳳」のことであり、最高の鳳で湖北の人々の叡智を比喩しているのである。