河南省登封市 中原文化の粋 古建築群(中)
劉世昭=文・写真
中国には、保存状態が比較的よい「漢代の闕」は七つあるが、そのうち、最も完全な「廟闕」は嵩山の太室闕、少室闕、啓母闕である。
「闕」は、「両観」「象魏」とも称され、実際は外大門の一種で、中国古建築の中でも特殊な類型だ。中国の古建築はその多くが保存の難しい木造のため、現存の地上古建築の中で、最も年代の古いのが闕だ。闕の種類はそれが置かれていた場所によって、宮闕、壇廟闕、墓祠闕、城闕、国門闕などに分かれる。
漢代の生活を知る貴重な画像
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「鋪首(門扉の握り輪の吊り下げ金具)図」・太室闕 |
後漢安帝の元初5年(118年)に建てられた太室闕は、中岳廟の前身である太室祠の神道闕(祠堂の外に立てた石碑)で、東闕、西闕からなる。西闕の南面には「中岳泰室陽城」という篆書で書かれた題字、その下に建造由来と中岳神への賛美の銘文が記されている。太室闕の闕の周りには人間や動物、神像をテーマとした50幅以上の画像が刻まれている。また、闕には多くの青龍、白虎、朱雀、玄武の形をした4霊獣の図が彫られている。この4霊獣は万物有霊とトーテム崇拝の中国原始社会の産物で、龍は黄帝部落と夏民族のトーテム、玄武は鯀及びその近親氏族のトーテム、虎は黄帝部落のある氏族のトーテム、朱雀は商族のトーテムだったが、後に瑞祥の象徴となった。ほかにも、「車騎出行(漢代貴族の外出)図」「倒立図」「馬戯(サーカス)図」など、漢代の人々の生活を反映する画像も多い。
太室山神を祀る太室祠の象徴的な大門として、中国現存の国家クラスの祭祀建築用闕として、太室闕は古代祭祀礼制建築の代表である。史上では、中岳嵩山を祭った帝王は72人もいる。太室闕は、古代祭祀礼制文化を体現すると同時にその証拠となるものである。
治水に没頭した禹を称える
啓母闕は啓母廟前の神道闕で、その北、190メートルのところに裂け目のある巨石がある。これが「啓母石」である。『淮南子』の記載によれば、中国の上古時代に禹は命を受け、氾濫する河水を治めるのに没頭するあまり、13年間に3回も家の前を通り過ぎながら中に入らず、妻の塗山氏は巨石に変わったという。巨石の北側が割れて産まれた男の子が、のちの夏王朝2代目君主の啓である。漢武帝(在位前140年~前87年)が嵩山を遊覧した時、この「啓母石」のために「啓母廟」を建立した。後漢の延光2年(123年)、啓母廟の前に神道闕が建てられた。これが啓母闕である。
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「月宮図」・啓母闕 |
サッカー中国起源説の「女子蹴鞠図」
少室闕の周りには、「女子蹴鞠図」が刻まれている。蹴鞠をやっている女性は、空中に舞い、ぱっと飛び上がる。動作がきりっとして優美。そばで他の娘が見ている。自分も中に入って一緒に遊びたくなる。啓母闕にも似たような蹴鞠図があるが、少室闕のほうはさらに完璧で、いっそう見栄えがする。これらの画像が2000年前の中国にすでにサッカーの雛形があったことを裏付けた。
少室闕は美しい少室山の山廟にある神道闕で、大体後漢元初5年から延光2年(118~123年)の間に建てられた。嵩山地区にある漢代三闕の中で、少室闕の名声が最も低かったため、逆に1000年経っても人目にさらされず、破壊もまぬかれたと言えよう。おかげで、少室闕は漢代の三闕の中で、石刻画像が最も多く完璧な状態で保存されている。太室闕の現存画像は50数幅、啓母闕には60数幅、少室闕には70幅以上に上る。
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「蹴鞠図」・少室闕 |
「狩猟図」には、前に一人が馬に乗って疾走し、振り返りながら矢を射、後ろは馬上で弓を引きながら矢に当たったシカを追っている。形が真に迫り、本物そっくりである。
「馬戯(サーカス)図」では、2匹の駿馬が空中を舞うように駆け、前の1匹に身体にぴったりとした衣装をまとった少女が馬の背で逆立ちをし、後ろの1匹には、長袖を広げた女性が身体を後ろに倒す。画面の誇張表現が疾駆する馬の姿やサーカスのはらはらさせる技をいかんなく見せる。他にも、「馴象図」「宴会図」「謁見図」「拝謁図」「車騎出行図」などがあり、漢代の優れた彫刻芸術の代表作であると同時に、漢代の人々の生活をも写し出している。
人民中国インターネット版 2011年8月