吉祥と祝いの油紙傘 消滅の危機から甦る
◆赤い傘の効用
昔は、読書人が上京して科挙の試験を受けたり、官職に就いて赴任したりする際には、背負った荷物に必ず1本の赤い油紙傘は持って行かなければならなかった。これは日差しや雨をよけるだけではなく、行路の安全やよい成績で「状元」(進士の首席合格者)になることを象徴していた。中国の有名な民間説話『白蛇伝』では、主人公の許仙と白蛇が西湖にある断橋で赤い傘の取り持つ縁で、永遠の契りを結んだ。
傘は唐代に中国から日本に伝わり、江戸時代に普及し始めた。京都の油紙傘は「京和傘」と呼ばれ、完全に手作りで、きわめて日本的な特色を帯びている。日本の伝統的な結婚式では、花嫁は赤い油紙傘で隠される。お年寄りは長寿を象徴する紫の傘を好む。死者を送るときは白い傘を使う。伝統的な踊りでも、油紙傘が小道具としてよく使われる。
◆畢六福さんの工場
瀘州の油紙傘は、成都から南に280㌔ほどの瀘州市の中心からさらに約20㌔入った瀘州市江陽区分水嶺郷でつくられている。そこはまるでタイムマシンで20年ほど前に戻ったような街である。石畳を敷き詰めた街路、のんびりと暮らしている地元の人々、建ち並んだ小さな店……市の立つ日以外はすこぶる静かだ。この地は長江と沱江の2本の大河に抱かれている。昔、塩を運んだ古道が街を貫き、荷馬車隊の足跡やさまざまな物語が今に残っている。
分水嶺郷の古い街にある傘工場 | 家の入口の広間にぶら下げられたさまざまな傘 |
畢六福さんの「分水油紙傘工場」は街の路地の中にあった。近代的な店構えや工房ではなく、塀で囲まれた、古ぼけた住宅だった。元は地主の邸宅だったが、1950年代に工場になった。広く薄暗い入り口の広間には、色とりどりの傘が1本1本、広げて懸けられており、さながら花が咲き乱れているようだ。壁には「傘王」と書かれている。この工場を参観に来た重要人物の写真も懸けられていて、かつての栄光と繁栄を示していた。
分水の人々は油紙傘づくりに秀で、すでに400年の歴史がある。最盛期には、油紙傘づくりで暮らす職人が1000人以上いた。かつては「どの家も傘づくりの職人がおり、どの家でも傘の糸を編むことができた」と言われたが、今残っているのは、畢さんの工場1つしかない。
美しい油紙傘はこんな粗末な工房から生まれる |
家の門口で傘の骨を編んでいた老職人の許昌斉さんの家にも、1950年代以前には、傘づくりの工房があった。数10人の労働者がいて、年間に約1万本以上の油紙傘をつくっていたという。その後、工房はみな傘製造工場に併合され、祖父と父と彼はみな傘工場の労働者となった。許さんの家の中には、さまざまの竹の材料や祖父たちが使ったブラシなどの工具がうず高く積み上げられており、彼の家が数代にわたってかなりの規模の傘づくり工房を経営していたことを示していた。
畢六福さんの家は、先祖代々この分水で、油紙傘をつくって暮らしを立ててきた。畢六福さんはその5代目に当たる。この家からは多くの傘づくりの達人が輩出していて、2代目の畢祥路さんは分水の街に「畢氏油紙傘舗」を創業した。その後、畢さんの一家は瀘州城内にも傘の店を開いた。1950年代には、畢さんの曽祖父が祖父を連れて分水に戻り、傘づくりを続け、再び分水を離れることはなかった。
畢さんは言う。「曾祖父の世代には八人の兄弟がいた。曾祖父は2人の息子をもうけたが、他の7兄弟の子どもはみな女の子だった。昔は、家伝の技は男に伝え、女には伝えなかった。女の子は嫁に行き、傘づくりの老人が亡くなって、傘づくりの工房は自然に閉鎖されてしまった」
畢六福さんの家は、父と自分、そして息子と、3世代にわたり男は1人しかいない。瀘州各地で100年近く栄えた「畢氏油紙傘舗」は次々と幕を閉じたが、最後に残った畢六福一家だけが、先祖の技を伝承している。
分水油紙傘工場の前身は、1952年に成立した瀘県製傘生産合作社である。ここは分散していた家内工房を吸収してつくられた。当時、畢さんの両親もこの工場で働いていた。
畢さんは1957年に生まれた。幼いころから傘づくりに興味を持ち、父に教わって10歳の時、油紙傘づくりの技術を身につけた。1975年、高校を卒業した畢さんは農村に下放され、1980年、分水に戻って分水油紙傘工場に入った。畢さんの傘づくりの生涯はここから始まった。
間もなく、折り畳み傘が大流行し、手作りの油紙傘は急速に競争力を失い、あっという間に次々と生産を停止したり、倒産したりしてしまった。1994年、畢さんは、危機に臨んで進んで犠牲となる覚悟で、工場の労働者全員に選ばれて工場長になった。1996年、桐油の価格が大幅に値上がりしたが、彼はたじろがず、毅然として傘工場の経営を請け負った。
◆傘づくりの技を守り抜く
畢さんは傘づくりに執着し、傘づくりの技をしっかりと守ってきた。1995年、彼がデザインしてつくった直径12㍍の巨大な油紙傘は、「中国傘王」と称えられた。2008年、分水の油紙傘の製作技術が国家クラスの無形文化遺産に申請され、その後、畢六福さん自身が油紙傘の国家クラスの伝承者に選ばれた。2009年には、「畢六福」が商標登録され、油紙傘のブランド品となった。その製品はフランス、英国、ドイツ、シンガポール、マレーシア、米国、日本などの10数カ国・地区で販売され、広く愛用されている。
うれしいことに、畢さんの息子は成都電子科学技術大学を卒業してから故郷の分水に戻ってきた。工場長の畢さんは、わが子は英語やコンピューターができ、自分の有能な助手となったと言っている。畢さんは、若者たちの知識とやる気によって、市場のニーズに適応する傘工場にし、油紙傘づくりの技を伝承していってほしい、と望んでいる。
人民中国インターネット版 2011年11月