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中原文化の粋 古建築群(下)

 

劉世昭=文・写真

中岳廟の前身は、秦の時代(紀元前221~前206年)に太室山神を祀る場所として造られた太室祠である。歴代の皇帝が河南省登封の北にある嵩山に登り、封禅(天子が天を祭る儀式)を行ったり、中岳の神を拝んだりしたので、廟宇の規模はますます大きくなった。清の乾隆年間(1736~1795年)、北京の故宮の建物の配置と建造の方法に基づいて、中岳廟は初めての大規模な全面改修が行われた。この改修によって中岳廟は金色や赤、青の色でさらにきらびやかになり、皇室の廟宇の風格を増した。

中岳廟の建築物は全部で11からなる。手前から順番に中華門、遥参亭、天中閣、配天作鎮坊、祟聖門、化三門、峻極門、嵩高峻極坊、中岳大殿、寝殿、御書楼である。これらの建物は、全長650㍍に及ぶ中軸線に沿い南から北へ、低いところから高いところへと建てられている。

もともとは中岳の神を祭る場所だった中岳廟は、北魏の時代(386~534年)以後、重要な道教の道観(道教寺院)となり、嵩山地区における最初の道教基地として、「第六小洞天」と尊称されている。

中岳大殿で盛大に行われた「冠巾法会」

中岳廟の中岳大殿(峻極殿)からは、心地よい読経の声が流れて来る。そこではまさに「冠巾法会」が行われていた。「冠巾」(冠を被る)とは道教の全真派で、弟子が道教に帰依し、道観に入って正式に道士となるための受戒の儀式である。戒を受けるのを待つ100人近くの少年たちは大殿内の床にひざまずき、法衣を着た三人の「高功」(道教法事の主宰者)が手に「法笏」(儀式や神事に際して用いられる笏)を持ち、大殿の中央に安置された中岳神像の前に立ち、祭文と呪文を絶えず唱え、時には香を焚き、時には身をかがめてひざまずき神像を拝む。法事が終わると、両側に座っている髪すきの道士たちが次々に、受戒した弟子たちの髪をすき、束ねてまげを結う。こうしてはじめて正式な道士となるのである。

後漢に造られた「石の翁仲」(西側)

出家した弟子は道観で師について3年以上修行し、規律違反がなければ、「冠巾法会」に参加して道士になることができる。

中華門の外に設けられた神道の両側に、四角い亭が2つ建っている。いずれもその中に、後漢の安帝の元初5年(118年)に刻まれた「翁仲」(古代帝王や大臣の墓前に立てた石製の人物像)が2体ある。1900年近い年月を経たにもかかわらず、石像の衣服や身につけた装飾は依然とはっきりとし、漢代の彫刻と服飾芸術を研究する上での貴重な文物である。

清の乾隆15年(1750年)、中岳廟を訪れた乾隆帝はここで「翁仲」を指さしながらわざと随行の翰林院大学士の1人に「これは誰か」と尋ねた。大学士があわてて「仲翁です」と答えた。乾隆帝は大学士が「翁仲」を「仲翁」と言い間違えたのを見てかすかに微笑み、「打油詩」と呼ばれる諧謔詩を一首作った。それは、1句、1句の最後の2文字をわざと逆にしたものだった。

 翁仲為何読仲翁(翁仲をどうして仲翁と読むのか)

  可知平時少夫功(功夫)(平素、勉強が足りないと知るべし)

  岂得在朝為林翰(翰林)(朝廷で翰林の大学士になったといえども)

  打到江南作判通(通判)(江南へ遣って地方官の「通判」となってもらおう)

中岳廟には、こうした歴代帝王がここを訪ねた時のおもしろい話や伝説が数多く残っている。このことからも中岳廟の地位がいかに赫々たるものであったかが分かるであろう。

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