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「3・11」中国大使館員の奮闘記─ (2)

 

「3・11」東日本大震災発生後、東京の中国大使館の全館員が、被災地にいる中国人の安否確認を最優先し、「人間本位に、外交は国民のために」の理念を実践し、日本の防震・救助活動の最前線で奮闘した。震災一周年を迎えるに当たり、本誌は当時、最前線で奮闘した大使館員の所感と記録の一部を5回連載としてお届けしたい。地震多発国の中日両国の官民があの震災の教訓を共有し、連携を深める一助になれば幸いです。ここで改めて、今なお被災地の再建に必死に取り組んでおられる日本の皆様に、心からの声援をお送り致します。

中国救援隊と共に大船渡へ

中国駐日大使館文化処 石澤毅

2011年3月13日から21日まで、私は中国大使館の指示で、中国国際救援隊の連絡員として救援隊に同行し、「3・11」大震災で被災が深刻だった岩手県大船渡市での救援活動に参加した。8日間にわたる活動中、中国隊はさまざまな困難を克服し、大船渡消防署や米英など各国の国際救援隊とともに、日本の災害対処活動に重要な貢献を果たし、現地の自治体と民衆から敬意を払われ、感謝された。私は幸いにも最初から最後まで、分秒を争って救援活動に取り組んだ15人の隊員と共に過ごすことができた。以下は当時の日記の一部をそのまま再録し、貴重な経験を振り返ってみたい。

【3月14日(月) 雨のち曇】

午前8時10分、深刻な被害を受けた大船渡市野野田に着いた。目の前は一面の廃墟で、遠くの港湾地区はすでに津波に侵食され空き地になっていた。周りの至る所に破壊された家屋が残り、多くの家屋の屋根には大きな船や変形した自動車が載っていた。突然、人類がちっぽけに思われ、天災の前ではすべてが浮雲だという感情がわき起こった。

救援隊は直ちに生存者の捜索・救助活動に着手した。彼らは倒れそうな民家の部屋のひとまひとまに潜りこんで、廃墟から生存者を見つけようと努めた。余震がまだ続き、破損がひどい家屋はいつ崩れ落ちてもおかしくない状態だった。しかし、みんなは危険を無視したように、生存者発見だけを考えていた。

大船渡での救援活動について協議する中国、日本、米国、英国4カ国の連席会議(写真提供・中国駐日大使館)

【3月15日(火) 曇】

午前10時50分、笹崎産婦人科医院まで捜索したとき、中村さんという女性に偶然出会った。彼女は涙ぐみながらも、笑顔でわれわれに感謝の気持ちを伝えた。実は彼女の父親はこの医院の院長だ。1960年のチリ地震による津波の際には、医院は近所で倒壊を免れた唯一の建物だったが、残念ながら今回は幸運から見放された。中村さんは、医院の建物は倒れてしまったが、中にいた人は全員無事だった。人さえいれば、必ず再建できると、語っていた。

中村さんのように災害に直面しながらも積極的で楽観的な態度を失わなかった人に感動し、心の中で彼女たちのために祈り、新しい医院も、新しい大船渡も必ず速いうちに再建できると確信している。

【3月16日(水) 雪】

午後1時30分、港の南部地域で米国隊と合流し、協力して捜索・救助に当たった。

午後5時30分、宿営地に戻った。ファミリーマートを通りかかり、おにぎりを買おうとした。店長は中国隊だと分かると直ぐ、四箱の食品の無料提供を申し出てくれた。被災地の食品がいかに貴重だか、自ら体験した人しか分からないので、急に心の中が暖かくなったように感じた。

【3月18日(金) 曇】

米英の救援隊は大船渡市を離れ、他都市へ救助に向かったため、中国隊が大船渡を守る最後の外国救援隊となった。四日間の厳しい捜索活動で、隊員の体力消耗は大きかった。しかし、尹光輝隊長はさらに捜索活動に全力をあげるよう、全員を激励した。

【3月20日(日) 晴】

午前9時30分、大船渡消防署を訪れ、撤収を告げた。全署員が整列して見送り、千葉本部長が署を代表して中国隊に感謝を表した。

午前10時、大船渡市役所を訪れた。戸田公明市長は、中国隊の努力を市民は終生忘れない、と感謝の言葉を述べた。

午後2時40分、宿営地から花巻空港へ向かって出発した。出発間際に、同じ宿営地で駐在した山形市、高知県から来ていた数十人の消防隊員が整列して、拍手で見送ってくれた。中国語と日本語で口々に「謝謝」「ありがとう」と大声で叫んでいた。よく知らないが親しみにあふれた一人ひとりの顔を見て、私は涙を禁じ得なかった。

 

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