初めての異文化体験
文=吉野綾子
中国を初めて訪れたのは学生時代でした。友人が一カ月ほどの「中国短期留学」のパンフレットを持ってきて、私に見せてくれたのです。大学生活に何の目的も見いだせず、漫然と過ごしていた私にとって中国短期留学はとても魅力的に思え、すぐに中国行きを決めました。渡航方法は空ではなく海でした。中国と日本を結ぶフェリー「鑑真」号で上海へ向かいました。当時の上海は今とは全く違いますが、活気に溢れる様子は同じでした。ぬるま湯のような生活を送っていた私にとって全てが新鮮で、五感を刺激されたのを覚えています。その後、南京大学で中国語を学び、最後は北京観光で終わりました。当時の北京の印象を一言で言うならば「グレー」。季節は冬だったので緑がなく、灰色のレンガで造られた低い家が続いていました。活気ある上海、のんびりとした南京、なんとなく厳しさを思わせる北京。同じ国でもこうも雰囲気が異なるものかと驚きました。
それから社会人となり長い間、私の生活に中国との接点はありませんでした。社会人生活も長くなり、何か物足りないと感じていた時、ふと「海外生活を体験してみたい」と思いました。すると再び「中国」への興味がむくむくと湧いてきました。目標が決まったらあとは実行のみ。二〇〇五年に再び中国の地を踏みました。グレーだった北京は二〇〇八年のオリンピック開催に向けてどんどん進化し、あちこちに高層ビルが立ち並ぶ色彩豊かな現代都市となっていました。
勢いよく始まる北京生活!のはずだったのですが、ちょっとしたトラブルが発生しました。実は北京へ発つ前の晩、歯の詰め物が突然ポロッととれ、そのまま来てしまったので、まず治療が必要だったのです。外国へ来ていきなり病院です。勤務先のスタッフに相談すると、近くの病院に連れていってくれたのですが、ちょっと荒い治療だったのでかえって不安が大きくなってしまいました。そこで私は自力で日本語が使える歯科に行ってみることにしました。中国語をまともに話せないので予約も移動も大変でした。タクシーはちょっと怖かったのでバスにしたのですが、これがまた難関です。今でこそバスはICカードが導入され停留所の名前も電光掲示板に示されますが、当時は車内に運転手とは別に車掌がいて、車掌が口頭で次の停留所の名前を叫ぶというものでした。さらに「下車する方はいますか?」と聞かれたなら「降ります」と伝えなければなりません。地図を調べ、路線を調べ、停留所を調べ、単語を調べ、とにかく筆談できる準備を万全にして出かけました。目的地に着くまでは一瞬たりとも気が抜けず、やっとたどり着いた時には本当に達成感でいっぱいでした。そんな初々しさも今となっては遠い昔。今では何が起きてもあまり動じない根性がつきました。
2011年、長春で開催された北東アジア博覧会の会場にて |
吉野綾子 (よしの あやこ) 一九七三年生まれ、岩手県出身。二〇〇五年に日本語教師として北京へ。その後日系企業勤務を経て現在、中国国際放送局の日本人スタッフとして日々、中国語&日本語と格闘中。
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人民中国インターネット版 2013年10月