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北京放送との縁に恵まれ

2012年11月、北京マラソンに参加し、北京五輪が開かれた「鳥の巣」の前でハイ・ポーズ

高橋 恵子 (たかはし けいこ)

1961年生まれ。群馬テレビ局アナを経て、フリーアナウンサーに。1993年から1995年まで中国国際放送(CRI、北京放送)の日本語部に勤務。2011年6月から再びCRI勤務。趣味は旅行と走ること。ブログ「アナウンサー高橋恵子的様子」で日々の生活を発信中。

「この歌、何ですか?」——1993年の労働節(メーデー)に中国国際放送局(CRI、北京放送)の日本語部に初出勤した私。聞こえてきた歌の曲名を尋ねると、当時の部長が「北京放送にも、ついに『インターナショナル』を知らない人が来るようになりましたね」と優しく笑ったことをよく覚えています。

静岡大学在学中からラジオやテレビの仕事をしていた私は、卒業後、群馬テレビの局アナを経て、フリーアナとして楽しく仕事をしていました。30歳になり、ずっとアナウンサーの仕事を続けたい、そのために何か特技を、と思って習い始めたのが中国語でした。ある時、担当していた番組に北京放送のアナウンサーが見学に来ました。それが縁で北京旅行をした時、放送局を見学させてもらい、「一緒に働きませんか」と声をかけられ、93年5月から北京放送で働くことになりました。

留学経験もなかった私は、触れるものが何から何まで新鮮で、ホームシックにかかるヒマもありませんでした。まだ、人民元と外国人の使うお金(外貨兌換券)が別々だったり、物も外国人も少ない時代でした。不便と言えば不便でしたが、今以上に人と人の距離が近かったような気がします。中国の国家機関で働いていることが解ると、「中国のために働いているんだ」と、タクシーの料金は安くなり、野菜を半斤(250㌘)買いたいと言うと、「お金は半分でいいから、全部持っていきなさい」と言われたり。先入観がなかった分、中国や中国人に対してはいい思い出しかありません。

95年に帰国した後も、アナウンサーの他に中国茶講座の講師をしたり、中国旅行や取材のアテンド、手配などをするなど、ずっと中国とはかかわりを持ち続けていました。わずか2年余でしたが、中国で暮らし、働いたことが私の人生を豊かにしてくれました。恩返しに何かできないかな…とぼんやり考えることもありました。

2011年、CRI が七十周年を迎えることや、国交正常化40周年などを控えて、「もう一度一緒に働いてください」「本当の中国を日本に伝えたい」という言葉に感動し、再び北京で働くことになりました。

現在の仕事は、アナウンサーの他、放送を通じて相互理解を深めるという任務もあります。日中関係はご存じの通りです。それでも、何かしたいと思い、日中友好ロゴ入りのTシャツをつくり、日本人、中国人ランナーと一緒に北京マラソンを走りました。多くのマスコミに取材してもらい、少しは中国から明るい話題を届けられたかなと思っています。その後も日中関係は楽観できる状況ではありません。でも、大変な時だからこそ、やり遂げた時の充実感も大きいと思います。マラソンで42.195㌔を走りきった時のように。

 

人民中国インターネット版

 

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