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「漢字入力法」が導く縁

 

文=伊藤英俊

 

2007年9月、ラサ郊外のヤムドク湖(海抜4440メートル)にて

伊藤英俊(いとう ひでとし)1943年横浜生まれ。在職中はコンピューターの漢字化、ワープロ開発等に従事。初出張で中国に魅了され中国旅行に興味を持つ。著書に『漢字文化とコンピュータ』(中央公論社)など。

私は情報処理メーカーでコンピューター開発、文字コードおよび入力方式の標準化等を担当してきました。カナしか使えなかったコンピューターへ漢字を入れた経験を、中国語コンピューターへ応用する仕事を通して、中国との関わりが生まれました。

初めて中国を訪問したのは1975年で、漢字プリンターを紹介するためでした。日中国交回復3年後のことで、まだ中国に関し日本に入る情報はほとんどなく、見聞きするもの全てが新鮮で、特に万里の長城や故宮などを参観し、歴史や文化の奥深さに衝撃を受けて、いっぺんに中国に魅了されました。

1980年代後半には、北京で漢字入力方式に関する交流をしました。私はピンインによる入力方式を提案しましたが、中国側から完全否定されました。中国では50年代末に、標準語、ピンイン、簡体字等の国語政策が実施されましたが、当の技術者たちはピンイン教育を受けておらず、ピンインをよく知らなかったようでした。当時中国の学会では数百種類の漢字入力方式が提案されており、全てが形や画数等をコード化する方式でした。後に「五筆」などいくつかの入力方式が実用化されましたが、現在は入力専門の人など一部で使用されているものの、主流はピンイン方式で、これがなければ携帯メールの普及はなかったと思います。

このように、仕事で中国に関わるうちに、中国語にも興味を覚えました。最初に訪中した際、宿泊した北京飯店でたまたま中国語会話講座のテキストを見つけ、帰国後短波放送で学習を始めました。当時中国語の参考書はおろか中国語の学習環境は皆無で、中国の放送講座が唯一の学習手段でした。しかし電波状態が悪くて音声がよく聞こえず、数カ月でやむなく中断、それから何年たったでしょうか、やっと会社の語学講座に中国語が加わりました。80年代後半になると、市中に中国語教室が現れ、私も通い始めました。その教室の仲間たちと中国語会話を実地で試そうと始めた中国旅行が、仕事での関係がなくなってからも続き、既に20年を超えました。他での旅行や以前の出張を加えれば、私は40回以上訪中したことになります。

行くたびに新たな発見があり、時には常識が覆されることもありました。例えばシーサンパンナの少数民族の村では、ブタ、トリなどが放し飼いで、まさに人間が家畜と同棲している感じでした。動物を囲うのではなく、井戸や水田など動物に入ってほしくない所だけを柵で囲っているのです。カシュガルでは炎天下に肉が無造作に並べて売られており、衛生状態が心配で尋ねたら、極度の乾燥で細菌が繁殖しないとのこと。内蒙古では珍しいという荒天で、パオに雨漏りがして一晩中眠れず、また五台山では、夜中にネズミが顔の上を走り、翌朝フロントに抗議したところ、謝るどころか笑いながら「最近多いんですよ、しかも太ってこんなに大きくって……」と、こちらも怒る気持ちが失せました。思い出せばきりがありません。

70代へ秒読みに入った今、会話力は後退するばかりですが、中国旅行への関心は今後も衰えることはなさそうです。

 

人民中国インターネット版 2013年3月

 

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